【第九評】中国共産党の無頼の本性
目 次 |
一 共産党の無頼の本性は全く変わっていない |
二 経済発展は中共の供え物となった |
三 中共の洗脳術は「赤裸々」から「精緻化」へ |
四 中共の人権偽装 |
五 中共の無頼漢としての様々な面構え |
六 無頼の本性の大暴露:「真・善・忍」を国家テロとして抹殺 |
七 「中国的」な無頼の社会主義 |
【第一評】【第二評】【第三評】【第四評】【第五評】【第六評】【第七評】【第八評】
【引用元】https://www.epochtimes.jp/p/editorial/9ping-9.html
序文
百年余りに亘って世の中を騒がせてきた共産主義運動が人類にもたらしたものは、戦争、貧困、血生臭さと専制だけであったが、ソ連と東欧の共産党の崩壊により、この世界に害を及ぼしたでたらめな芝居も前世紀末には終焉へと向かい、今では、庶民から党の総書記に至るまで、共産主義のたわごとを信じる人は誰一人いなくなった。
「君権神授」でもなく「民主選挙」でもない共産党政権は、自らが生存の拠り所としていた信仰が完全に消えうせた今日、その執政の合法性もかつてない挑戦を受けることとなった。
中国共産党(中共)は、歴史の潮流に従ってその表舞台から退くことを拒み、逆に数十年に亘る政治運動の中で蓄積してきた、邪悪の粋を集めた各種の無頼手段を振るうことにより、合法性を探り、起死回生を図るための狂気のごときあがきを始めた。
改革にしろ開放にしろ、中共の目的は、ただ単に集団の利益と独裁政権を必死に維持することである。中国のこの20年間の経済発展、つまり、中国人民が依然として厳しい束縛の中で辛労を重ねて獲得した果実は、中共に刀を捨てさせることができなかったばかりか、逆に執政の合法性の資本として奪い取られてしまい、その一貫した無頼行為をいっそう人々を惑わす欺瞞的なものにしてしまったのである。
最も恐れるべきことに、中共は全力を傾けて民族の道徳的基盤を破壊し、全ての中国人を大なり小なり無頼の徒に変えて、共産党のために「時代とともに変化する」生存環境を確保しようと企んでいる。
民族の長期に亘る太平と安定のために、そして中国が一日も早く共産党支配から脱却し、民族の栄光を取り戻すためにも、共産党はなぜ下劣な行為をするのかということ、ならびにその無頼の本質を明確に認識することがとりわけ重要となった。
一、 共産党の無頼の本性は全く変わっていない
(一) 共産党の改革なるものは誰のためなのか?
歴史上、中共は、危機に遭遇するたびに改善しているように装い、人々に中共に対する幻想を引き起こさせてきた。しかし、これらの幻影は、一つの例外もなくことごとく水泡と帰していったのである。今日、目先の利ばかり求めて見せびらかす、中共方式の経済繁栄という偽りの姿の下で、人々は共産党に対してまたも幻想を産み出してしまっている。とは言え、共産党自身の利益と国家民族としての利益が根本的に相反するものである以上、この種の繁栄が長続きしないのは当たり前であり、それが約束した「改革」なるものは、中共の統治を守ろうとするだけのものであり、薬を煎じるための水は変えるが薬は変えないといった小手先の改革にすぎないのである。歪んだ発展の背後には、更に大きな社会的危機が潜んでいる。この危機が一旦暴発すれば、国家と民族はまた巨大な衝撃を受けることになるであろう。
中共指導者は、世代交代につれて、天下を治めうるような器量を失い、天下を支配するための威信も失っていった。しかし、共産党は一つの体制として、合法性が危ぶまれる中、集団の利益を維持することが個人の利益を守るための根本的保障となってきているのである。このような利己的な本性を持ち、全く制約を受けない政党が、苦もなく順風満帆に発展するなどということは一方的な思い込みに過ぎない。
中共の『人民日報」でどう述べられているか見てみよう。
歴史的な弁証法は、中国共産党員に次のように教え込んだ。「変わるべきものは、変わらなければならず、変わらなければ衰える。変わるべきでないものは、変わってはならず、変わることは己の瓦解を意味する」。(2004年7月12日第1面)
では、変わるべきでないものとは、いったい何なのか。
党の「一つの中心、二つの基本点」[1]という基本路線は、百年変わらず揺らぐことはない。(2004年7月12日第1面)
人々は何が中心で何が基本点なのか分からないが、誰にでも分かることは、共産党の邪霊が、その集団の利益を守り、独裁専制を続けようとする決意を悔い改めようなどということは決してありえないということである。案の定、共産党は世界の至る所で崩れた。それが共産主義の末路なのである。しかし、亡び行くものは必ず必死にその滅亡に逆らおうとし、より破壊的となる。共産党と民主改良について話し合おうなどというのは、トラに向かって皮をよこせと頼むような無理な相談にほかならない。
(二)共産党がなくなったら中国はどうなるのか?
共産党が衰退へと向かっている今、人々は思いがけなく、邪霊の憑き物のような中共が数十年にわたって、千変万化の無頼な手段によって人々の生活の様々な側面に共産党の邪悪な要素を注ぎ込んできたということに気付いた。
かつて、少なからぬ人が、毛沢東の遺影の前で涙を流し、「毛沢東がいなくなったら中国はどうなるのか?」と繰り返し泣き叫んでいた。二十数年後の今日、共産党が「執政の合法性」を失った今、中共は新たなメディア宣伝によって、再び人々に、「共産党がなくなったら中国はどうなるのか?」という憂いを抱かせているのである。
事実、中共は、あらゆる隙間に入り込むという統治方法によって、われわれの文化と思考方法、更には中共を判断する基準にまで深々と中共の烙印を押し、言い換えるならば中共そのものに変えたのである。過去が、中共の考えを人々の思想に注ぎ込む時期であったとすれば、今は正に、中共がそれを収穫する時期になったと言える。なぜなら、当時注ぎ込まれたものは、既に消化され人々の細胞となっており、人々は自ら進んで中共の論理によって思考し、中共の立場に立って物事の是非を判断するようになったからである。
6月4日の天安門事件の虐殺について、「私が鄧小平だったらやはり戦車で鎮圧しただろう」と言う人がいる。法輪功への鎮圧について、「私が江沢民だったらやはり徹底的に鎮圧する」と言う人がいる。言論の自由の禁止について、「私が共産党だったら同じようにする」と言う人がいる。真理と良識は既に無く、共産党の論理しか残っていない。これこそ、中共の無頼としての最も悪辣な手段の一つなのである。人々の頭の中に中共のこういった毒素が残っているかぎり、中共は無頼としての生命を維持するために、そこからエネルギーを吸い取るのである。
「共産党がなくなれば中国はどうなるのか?」という思考方法こそ、中共が夢にまで願ったものであり、人々にその論理に従って物事を考えさせているのである。
中華民族には、中共の支配が始まる以前、既に五千年の文明の歴史があった。世界のいかなる社会といえども、王朝の滅亡によって発展の歩みが止まったという例はない。しかし、数十年の中共の統治によって、人々は判断力を失い、長期にわたるキャンペーン、党を母と思わせる教育、あらゆるところに及ぶ政治によって、中共が無ければ生活ができないと思い込まされているのである。
毛沢東がいなくなっても中国は倒れていない。共産党が無くなれば中国は倒れるであろうか。
(三)動乱の本当の源は誰であるのか?
多くの人が、中共の無頼な行為を十分理解しそれに反感を持ち、共産主義の人を懲らしめ騙す手法を嫌悪している。しかし、人々は、中共の政治運動とそれによって引き起こされる動乱に恐れをなしており、中国が乱れることを恐れている。中共が一旦「動乱」の名目で脅すと、人々は中共の強権に対して何もできず、その統治を黙認することになってしまう。
実際のところ、数百万の軍隊と武装警官を抱えている中共こそ、中国の動乱の真の源であって、一般民衆には動乱を起こす理由は無く、ましてや動乱を起こす資格も無い。潮流に逆らって動いている中共こそ、疑心暗鬼となって国家に動乱を持ち込んでいるのである。「安定が一切を圧倒する」、「一切の不安定要素は、その萌芽状態のうちに消滅させる」というのが、中共が人民を弾圧する理論的根拠になっている。誰が中国最大の不安定要素であるのか。それは専ら暴政を行っている中国共産党にほかならない。動乱を起こしている中共が、「動乱」を逆用して人々を脅しているのであり、これこそ無頼漢のやり方なのである。
二、 経済発展は中共の供え物となった
(一) 人々が苦労して培った成果を盗用
中共が自認する「合法性」は、ここ20数年間の経済発展にある。実際、この経済発展は、中共が人民に対する束縛を少し緩めた中で、中国人民がコツコツと一つ一つ積み上げて来たものであり、中共とは何ら関わりがない。それにも拘らず、中共はその成果を自分の功労として宣伝し、人々に対してその恩に感謝するよう言う。まるで、中共がなければ、この成功は全てあり得なかったかのようである。誰もが知っている通り、共産党政権がない多くの国家では、とっくにもっとすばらしい状態になっているのである。
オリンピックで金メダルを取った選手は、党に感謝することを求められ、党自身も自ら、見せかけの「スポーツ大国」を実現したのは党の英明なリーダーシップのお陰とした。中国で「SARS」が流行した時には、「党の基本理論、基本路線、基本綱領、基本経験の実践」が病毒との戦いに勝利をもたらした(人民日報)と言い、「神州五号(宇宙船)」打ち上げ成功の時は、本来科学技術者の貢献であるものを、中共のお陰であり、中共こそが中国人民を世界の大国に列しうる証しであると宣伝した。2008年のオリンピック開催権については、本来西洋諸国が中国の人権状況改善を進めることを意図していたにも拘らず、反って人権抑圧を「合法的」にし、民衆に対して公然と弾圧実施への口実として利用した。諸外国が見込んだ「巨大市場の潜在力」は、本来13億人民による消費であるにも拘らず、中共はこれを掌握しているとして、西側諸国への脅しの材料とし、中共統治の武器として使っているのである。
全ての悪しきことは反動勢力と下心がある者が行うとし、全ての良いことは党の指導のお陰で成功したとしている。何かが達成されれば、それは全て中共統治の「合法性」を塗り固める材料となる。良くないことさえ、その悪事を塗り替えて、自らの「合法性」に貢献するものにしてしまう。例えば、中共は、エイズの流行について厳重な情報封鎖を行っていたが、隠し切れなくなると、態度を一変させた。自分たちが悪事の張本人であるにも拘らず、人類の疾病に対する挑戦者であり、患者への福音であり、エイズの対抗勢力であるとして、有名俳優から党の総書記まで動員して、大々的な宣伝を行った。人命に関わる重大な問題であるにも拘らず、中共は自らを粉飾する材料としてしか考えておらず、このような理不尽な手法は、中共という無頼漢にしかできないものなのである。
(二) 短絡的行為が後発劣勢をもたらす
重大な「合法性の危機」に直面している中共は、統治を守り抜くために改革開放を進めたのだが、功を焦り目先の利を追ったがために、中国を「後発劣勢」に陥れてしまった。
「後発劣勢」あるいは「後発優勢」の概念とは、発展の遅れている後進国は、逆に多くのものを先進国から模倣していけるということである。模倣には二つの形式がる。一つは制度の模倣であり、もう一つは技術及び工業化の模倣である。制度の模倣には困難が伴う。制度の改革は既得権益に触れるため、後進国は技術の模倣に走る傾向にある。技術の模倣は、短期間に発展の効果が見られるが、長期的発展という面からは、多くの問題を内包することになり、長期的発展の失敗を引き起こすこともある。
中共は正に、この「後発劣勢」という失敗の路を歩んでいる。二十数年間にわたる「技術の模倣」で獲得した成果は、執政の「合法性」を国民に語るための資本とされ、自身の利益を脅かす政治体制の改革にはいっそう反発を示し、むしろ民族の長期的発展を犠牲にしようとするのである。
(三) 中共の経済発展は悲惨な代償を支払う
中共は絶えず自国の経済発展を誇っているが、実は、世界経済における現在の中国の地位は、清朝の乾隆時代よりも下なのである。清朝乾隆時代の中国の国民総生産(GDP)は世界の51%にあたり、孫中山が中華民国を建国した当初の中国のGDPは世界の27%であり、中華民国11年のときのGDPも依然12%に達していた。中共が政権を取った際の中国のGDPは世界の5.7%を占めていたのが、2003年になった時点では世界の4%にも達していなかった。国民政府時代の数十年間の戦争によって引き起こされた経済的下降とは異なり、中共は基本的に平和な時代において経済的下降を引き起こしたのである。
中共は、党の集団利益が至上という欠陥経済改革を維持し、政権執行を合法的にするために、目先の功利を追い求め、その結果、国家に悲惨な代償を払わせている。20年以上に及ぶ経済の急速な発展は、その大部分が資源の搾取となる過度の消耗と浪費という基礎の上に成り立っており、往々にして環境の犠牲をその代償として支払っている。中国のGDPに示される数字は、その相当な部分が、後世の人々が与えられるはずの機会を犠牲にすることによって獲得されたものである。2003年、中国の世界経済における貢献は4%にも満たないのに、鉄鋼やセメントなどの消費は、世界の1/3にも達しているのである(新華社2004年3月4日報道)。
前世紀の80年代から90年代末までで、中国国土の砂漠化は年間1,000k㎡から2,460k㎡に拡大した。そのため、1980年には中国人一人当たり約13.5アールであった耕地面積が、2003年には約9.6アールに減少した。さらに、ここ数年の猛烈な宅地開発ブームによって、全国の耕地約700万ヘクタールが食い荒らされた。ただ実際には、宅地開発のために囲い込まれた土地の利用率は43%に過ぎなかった。また、現時点での廃水排出量は439.5億トンとなり、環境容量を82%も超えている。七大大河水系の中で、人や家畜の飲用に適さない水は40.9%を占め、75%の湖沼には様々な程度の富栄養化が起っている。…中国人と自然との矛盾が今日ほど突出していたことはかつてない。こういった状況が進めば、中国のみならず全世界が耐えられなくなるであろう(新華社2004年2月29日報道)。
眼前の高層ビルに酔いしれている人々は、近づきつつある生態系の危機に全く気付かずにいるかもしれない。しかし、一旦大自然が人類に対して牙をむいたならば、中華民族が被る打撃は想像もつかないものになるであろう。
一方、共産主義を放棄したロシアは対照的である。経済改革と政治改革が同時進行しており、短期間の苦しみを経た後、急速に発展への道を歩みはじめている。1999年から2003年までの間に、ロシアのGDPは累計29.9%成長し、国民の生活水準も顕著に向上した。西側ビジネス界も、「ロシア経済現象」について語りはじめたばかりでなく、ロシアというこの新興の投資地域に大挙して参入し始めた。世界で最も投資吸引力を持つ国として、ロシアは、2002年の17位から、2003年には8位に上昇し、初めて世界で最も歓迎されている10大投資地域の仲間入りを果した。
ほとんどの中国人が、貧しくて立ち遅れており、人種間の衝突が絶えないという印象を持つインドでさえも、1991年の経済改革以来、発展の加速は顕著であり、毎年の経済成長率は7〜8%に達している。インドは市場経済法律体系が比較的整っており、金融システムも健全であり、民主制度も比較的成熟しており、国民性は穏やかであるため、国際社会からあまねく、巨大な発展潜在能力を持つ国であると考えられている。
それに相反して、ひたすら経済改革だけ行い、政治改革を行おうとはせず、短期的な経済的繁栄という虚飾の下に、「制度の進化」という当然の選択を妨げている。このような片手落ちの改革は、中国社会をますます畸形化させ、社会の矛盾をますます際立たせるだけであって、人々が今日勝ち得た発展には何ら制度化された保障がないのである。その上、中共の特権階層は、国有資産の民営化の過程で、権勢を借りていっそう私腹を肥やしているのである。
(四) 中共の農民に対する詐欺行為
中共の政権は、農民に依存して打ちたてられたものであり、古い解放区の人民は中共に全てを捧げた。ところが、中共は権力を掌握した後、農民を差別したのである。
中共は、政権樹立後、極めて不公平な戸籍制という制度を制定した。「農業従事者と非農業従事者」を強制区分し、一つの国家内に分裂と対立を生み出したのである。農民には医療保険も失業保険もなく、退職金(廃棄保障)も融資制度もない。農民は、中国で最も貧しい階層であるにも関わらず、最も重い税金が課せられている。農民は、公積金、公益金、行管金、教育費附加、計画生育費、民兵建設訓練費、郷村道路建設費、及び特別慰問金(戦没者の家族、軍人家族などに与えられる)などが課せられる上、公糧、農業税、土地税、特産税、屠宰税なども支払わされる。しかも、各種の割り当て名目は枚挙にいとまがない。一方、こういった税金は、「非農業従事者」には課せられないのである。
温家宝は2004年初めに出した「1号文件」(執行部による公文書)で、中国の農民、農業、農村は改革開放以来最も厳しい時期にあり、多くの農業従事者の収入は低迷、減少し、ますます貧しくなっており、都市部住民との収入格差は広がる一方であるということを明らかにした。
四川省東部の営林場で、上級機関が植林用に50万元を支給した。すると、営林場の責任者がまず20万元を着服し、残りの30万元で請け負わせた。この予算が下層に下りていくうちに同様に着服され、実際に植林を行う当地の農民に渡されるお金はほとんど残っていなかった。ただ、政府は、農民たちがお金が少ないということで植林をしないのではないかなどということは心配していなかった。なぜなら、農民たちは貧しいので、いかに安くとも必ずやるはずだと考えたからである。「中国製」の物品が安いのも同じ理由である。
(五)経済利益で西側を脅かす
多くの人は、貿易の発展が中国の人権、言論の自由、民主改革を促進しうると考えていた。しかし、十数年が経過した今日、これはただの希望的観測でしかなかったことが証明された。最も典型的な点はビジネスの原則である。西側諸国の公平透明が、中国ではコネクションに変わり、贈賄、収賄、汚職腐敗となる。多くの西側の大企業が、中国の腐敗進展を煽動する急先鋒となり、更には中国の人権弾圧、人民虐待を隠蔽する母体となっている。
経済カードによる手口は、中共の無頼漢たる外交上での現れである。例えば、航空機の発注をフランスにするのか米国にするのかは、どちらが中国の人権言論問題についてあれこれ言及しているかによって決めるのである。経済的権益が多くの西側のビジネスマンや政治家をしっかりと取り込んだということである。北米の一部のウェブ関連企業がインターネット上の情報を封鎖する専用商品を中共に提供しており、一部のインターネット関連企業は、中国へビジネス展開するために、中共にとって好ましくないものを全てのウェブサイトから「自主的に」フィルターするということまでしている。
中国商務部の統計によれば、2004年4月の中国における外資は累計で9,901.3億米ドルとなっている。外資が中国経済にとって大きな輸血的作用をもっていることは明らかである。しかし、その輸血の過程において、外資が民主、自由、人権の理念を基本原則として中国人民にもたらすことはなかった。外国企業と外国政府の「無条件」の協力及び一部の国による媚びは、かえって中共が宣伝用に使用する統治資本となった。経済の表面的な繁栄の表看板の下で、役人と商人が結託し、国家財産を掠め取り、政治改革の実行にこれ以上ない妨げとなっている。
三、中共の洗脳術は、「赤裸々」から「精緻化」へ
しばしば聞かれる話として、「中共が以前よく嘘をついていたことは知っているが、今度の話は嘘ではない」というのがある。皮肉とも言えるのは、時の流れを遡ってみても、歴史的に見て、中共が何か大きな誤りを犯した時、人々はいつも同じことを語っていた。これこそ中共が数十年にわたり磨き上げて来た、人民を騙す虚言の本領である。
大風呂敷を広げたような虚言に対しては、人々がいささか抵抗を感じるようになったため、中共の人を騙す嘘も「精緻化」し、「専門化」してきた。過去のスローガン式宣伝から、「少しずつ前進させる」、「細緻化し、微に入り細にわたる」手法となってきている。特に、情報封鎖をした状況において、「事実」の断片を切り取った虚言で、民衆を過った方向へと誘導しており、その害は、人々をいっそう惑わすものとなっている。
英文雑誌「China Scope」2004年10月号に、中共が今日いかにして、さらに「精緻化」された手法で虚言を作り出して真相を覆い隠してきたかについての事例分析が紹介されている。2003年大陸でSARSが流行した際、外部では中共がその実情を隠蔽しているのではないかと疑ったが、中共はそれを再三否定した。中共のSARS報道が客観的なものであるか否かを確認するために、この記事の作者は年初から4月初めにかけて新華ネット上に発表されたSARS関連報道400篇余りに目を通した。
これらの報道から作者は、次のような報道があったことがわかった。SARSが出現した際、中央から地方までの専門家が直ちに立会診察を行って治療し、病人は回復し退院したということ。一部の良からぬ者が風波を立てることを恐れ、政府は流言を遮断し、人民の生活秩序の安定を保障しているということ。外国にいる少数の反華勢力が、根拠も無しに、中国政府が隠蔽しているのではないかと疑っているが、大多数の国々と国民は彼らの言うことを信じていないということ。広州交貿会は、歴史上最大の規模で開催されようとしており、海外からの観光客が、中国の国内観光は安全であると証言したこと。特に(ごまかされた)WHOの専門家も、中共は協力的であり、措置は的を射ており、何の問題もないと語ったこと。(二十日余り待たされた)WHO専門家が広東省への公開視察を許されたということ。
これら400篇以上に及ぶ報道から、作者は、中共は全てを透明にしており、人民の健康には絶対的な責任を負い、情報を隠すなどということは考えられない、と感じさせられた。しかし、4月20日になって、国務院の報道部は記者会見を行い、中国でSARSが全面的に発生したと発表し、実情を隠蔽していたことを認めたのである。ここから、中共の「時代と共に変化する」無頼漢的欺瞞の手段が明白に読み取れる。
台湾の大統領選挙に関しても、「手順を踏みつつ」、「ゆっくり誘導」するという方式で、人民を巧みに洗脳し、大統領選挙によって、自殺率が上昇し、株価が下落し、「怪病」が増え、精神異常者が続発し、島民は海外へと移住し、家人は反目し合い、生活は張りを失い、市場は落ち込み、街では銃が乱射され、紛争抗議が起こり、総統府を包囲して天下大乱となり、政治はどたばた劇を演じる…毎日大陸の民衆にこういったでたらめな情報を流しては、人民に「これは全て選挙のせいである」、「私たちは決して民主選挙など行ってはならない」と思い込ませるのである。
法輪功問題に関しては、中共は更に悪辣な手段を講じている。全ての演出は真に迫り、一つ一つ用心深く小出しにして行くことで、人々は信じざるを得なくなったのである。騙しによる無頼の手法は、騙される人々の感情を巧みに操り、虚言を真実であると信じ込ませる。その上、騙された人々は、自分たちが真理に準じているとまで勘違いしてしまうのである。
この数十年間、洗脳で人を騙す手口は、より「精緻」で「微に入り細にわたる」ものとなり、その無頼の本質を増長させている。
四、 中共の人権偽装
(一) 権力を奪い取り民主を求めるためであったのが、独裁統治と人権偽装へ
「民主国家にとって、主権在民は普遍の原理である。民主国家を自称する国で主権が人民の手中になければ、それは偽りであり、異常であり、民主国家ではない。党支配を止めず、人民による普通選挙も行わずして、何が民主と言えるのか?人民の権利は人民に渡さねばならない!」
これは海外の敵対勢力が中共を打倒するための檄文であるに相違ないと思われたならば、それは誤りである。この宣言は、1945年9月27日付の中国共産党機関紙『新華日報』に掲載されたものである。
大声で「普通選挙」を唱え、「人民の権利を人民に与えよ」と要求した中共は、政権を掠め取った後「普通選挙」を禁句としてしまった。「主人公となって政治に参与する」はずの人民は、主人公となる権利を全く得られなかった。このような手口は、「無頼漢」の二字をもってしても中共の面目を語るに足りない。
これを過ぎたことであるとし、殺人によって政権を作り上げ、虚言で国を治める邪教中共も、今では改善され、「人民の権利を人民に与える」準備があると見なすことは、大きな誤りである。60年経過した今日、中共の機関紙『人民日報」がどのように唱えているか耳を傾けよう。
「意識形態工作の主導権をしっかり掌握することは、党執政のための思想的基礎と政治的基礎を強固にするためにどうしても必要である」(2004年11月23日第九版所載)
中共が最近唱え出した新「三不主義」[2]では、1番目に来ているのが「論争せずに発展させる」である。「発展」とは偽りであり、人に有無を言わせず、己の言うことを至上命令とする手法を強要する下での「論争せず」が、中共の本当の目的である。
江沢民はかつて、CBSの名レポーター、マイク・ウォレスのインタビューを受け、「中国は、なぜ現在に至っても普通選挙がないのか」と訊ねられた。その時の答えが、「中国人の素質があまりにも良くないから」というものであった。
しかし、1939年2月25日の『新華日報」には、共産党の見解として、「国民党は、中国での民主政治の実現を今日のこととせず、何年か後のことだとしている。彼らの希望は、中国人民の知識や教育水準が欧米のブルジョア国家並みになれば、民主政治を実現するとしている…ところが、民主制度の下にあるからこそ、民衆の教育訓練は正に容易に行えるのだ」と言っている。これこそ中共無頼漢の面目を正に現している。
六四(天安門事件)後の中共は、重い人権という荷物を背負ったまま世界の舞台に帰ってきた。歴史が中共に選択の機会を与えたのだ。第一の選択肢は、人民を尊重し真に人権を改善することを学ぶことであり、第二の選択肢は、引き続き人権を侵犯し、対外的には人権を尊重しているように装い、譴責を逃れることである。
不幸なことに、無頼の本性を持つ中共は、躊躇することなく第二の選択肢を選んだ。科学界、宗教界を含めた各領域で、欺瞞に満ちた宣伝を行い、人権が進歩していると吹聴する大量の偽装人員を雇い、「生存権」なるものを持ち込んでは人権論議をはぐらかせ(空腹で有れば話す権利が無いというのであろうか?例えそうであっても、満腹の人は、空腹の人のために何かを言うこともできないと言うのであろうか?)、人権ゲームを弄び、中国人民と西側民主国家を欺き、「今が中国の人権にとって最もよい時期である」と吹聴したのである。
中共憲法第三十五条には、中華人民共和国公民は、言論、出版、集会、結社、デモ行進、デモの自由があると定められている。これは全くのところ中共のことば遊びである。中共の統治下では、どれほどの人が信仰、言論、出版、集会、弁護の権利を奪われたことか。さらには、一部の団体の陳情は違法と見なすとまで規定されているのである。2004年以来、一部の陳情団体が何度も北京でのデモ行進の許可を申請したが、政府は同意しなかっただけでなく、申請人を拘禁した。中共憲法に規定された香港の「一国二制度」さえもペテンである。何が50年不変なものであろうか。わずか5年で23条の悪法を通過させ、二制度を一制度に変えようとしたのである。[3]
「言論を緩める」という言葉を流しては、監視をしていないように見せかけるのが、中共無頼漢の新たな策略である。中国人は現在、何かを語ることが以前より自由になったと感じている。インターネットの出現で情報の伝達もより早くなった。そこで、中共は、言論は自由であると言い、多くの民衆もそれを信じるが、それは仮面である。中共が慈しみ深くなったのではなく、社会の発展と技術の進歩を中共が阻止できなくなったのである。中共がインターネット上でやっていることをみる限り、ネット封鎖、フィルタリング、監視、コントロール、罪を着せるなど、完全に世の流れに逆行している。今日では、一部の人権良知に背く資本家らの協力の下に、中共の警察はパトカーの中でインターネット上の人々の動きを監視できる装備を備えている。世界の民主自由という大潮流の下で行っていることから見ると、中共は公に悪事を働いているわけで、こんな状態で人権状況の改善などあり得るはずがない。自ら述べている通り、「外は緩く見せ、内は締める」のであり、無頼の本質は全く変わっていないのである。
国連人権会議における面子のため、2004年中共は人権侵犯を取り締る活動を行ったが、これは全て外国人に見せるためのもので、実質的な内容は全くない。というのも、中国にあって最大の人権迫害分子は共産党そのものであり、中でも前総書記江沢民、元政法委書記羅干、公安部長周永康及び副部長劉京などが中核だからである。彼等に人権侵犯者を取り締れというのは、正に泥棒が他人を泥棒呼ばわりしているようなものである。
これは例えてみれば、強姦常習犯が以前は人が見ていないところで、毎日10人の少女を凌辱していたが、後になって通行人が多くなったため、大衆の面前で一日に一人しか凌辱できなくなったということである。この罪人は好くなったと言えるであろうか。以前は人の見ていないところで少女を強姦していたが、現在は大衆の面前で少女を強姦するというのであれば、この罪人はより下劣で破廉恥になったということであり、強姦常習犯の本性に何ら変化はなく、ただ、以前ほど勝手にできなくなったというだけのことである。
中共は正にそういった無頼の強姦魔である。中共独裁の本質は、権力を失うことを恐れるという本能であり、人民の権利を尊重することなどあり得ない。人権尊重を装うために投入した人力、物力、財力は、真に人権改善のために付与した努力を遙かに上回っている。共産という無頼漢が中華を嗜虐しており、これこそ中国人民の最大の不幸である。
(二)「法律」を手段に「文明の衣を着て」無頼行為を行う
中共は特権集団の私利を擁護するために、一方で偽装を取り外し、徹底的に工農民衆を捨てている。また一方では、中共の人権侵害のスキャンダルが次から次へと国際社会に暴露されるにつれて、欺瞞と無頼の手段も「時代とともに変化」し、「法治」、「市場」、「人民のため」、「改革」などの流行用語を用いては、人々を惑わすのである。文明の衣を着ている中共邪悪無頼漢の本性は変わっていないばかりか、人民服を着ていた以前の中共に比べ、より悪質で欺瞞と惑乱に満ちるようになった。例えて言えば、『動物農場』(1946年英国の小説家ジョージ・オーウェルが全体主義を皮肉った寓話)に描かれている、両足で立ち上がって歩くことを覚えた豚のようなもので、体を真っすぐにして歩く豚は、豚というものに対して新しいイメージを与えたが、豚という「本性」は全く変わっていないのである。
1)憲法に反する各種の法律法規及び条例を制定する
これらのものは、いわゆる「法律に基づいたもの」として、国の各級法律執行担当者へ伝達され、「反迫害、自由の獲得、人権の擁護」のために努力する人民に対しての弾圧に利用される。
2)「非政治的」な問題に対して「政治的」手段を用いて解決する
一般的な社会問題を「党と群集を奪い合う」、「党を滅ぼし、国を滅ぼす」、「動乱」、「敵対勢力」などの重大問題にエスカレートさせ、「非政治的」な問題を意図的に「政治的」な問題とし、政治運動の宣伝方式を用いて民衆の憤りを煽り立てるのである。
3)「政治的」な問題を「非政治的」手段で解決する
一部の民主運動家や知識人に対して中共が採っている最新手法は、罠を仕掛け、「売春婦を買う」、「脱税」などの民事刑事罪名によって彼らを刑務所へと陥れることである。この手法を用いれば、人の目を眩ませることができる上、世間の非難から逃れられ、更に彼らを大衆の面前で辱めることができるのである。
中共の無頼の本性があえて変わったと言うのであれば、更に恥知らずとなり、ますます人間性を失ってしまったということに尽きる。
(三)十数億の人民を拉致する「人質無頼漢文化」
例えば、強盗がドアをうち破って押し入り、強姦をも犯した。法廷における弁護では、その「強姦行為」のおかげで人を殺さずに済んだのであり、「強姦」と「殺人」を比べれば、殺人の方が凶悪である。従って、法廷は被告を無罪釈放とすべきだと述べ、人々が「強姦は筋が通っている」と唱和すべきとする。
これは全くの荒唐無稽であるが、中共の六四(天安門事件)弾圧の理論は、この強盗と同じなのである。彼等の説は、「学生を弾圧」することによって「内乱」を防いだ。だから、「内乱」と比べれば「弾圧は筋が通る」ということである。
強盗が法廷で裁判官に、「強姦と殺人ではどちらがましか」と問う。これは何を意味するかと言えば、この強姦犯は破廉恥な無頼漢だということである。同様に「六四」(天安門事件)の問題において、中共とその同調者は、殺人が罪であるか否かという問題を検討したのではなく、社会に対して「弾圧と内戦ではどちらを選ぶか」と尋ねたのである。
中共は、国の全ての機器と宣伝媒体をコントロールしている。言ってみれば、13億の人民は全て中共の人質である。この13億の人質を手にして、中共の「人質理論」は常に、一部の人を弾圧しなければ内乱になるかも知れない。そうすれば国家的災難に陥ると言っている。このような口実によって、いつでも所かまわず、誰かを弾圧したくなれば弾圧し、しかも永遠に「弾圧は筋が通っている」のである。このように民意を踏みにじっている中共を上回るような無頼漢がいるであろうか。
(四)飴と鞭を与える。「自由」の恩賜から、より酷くなった弾圧まで
人々は、今は昔に比べると随分「自由」になったと感じている。そこから、中共は将来良くなって行くだろうという希望をもっている。しかしながら、人民が「授け」られた自由の度合いは、中共自身が感じている危機感と大いに関係がある。中共は、党の集団としての利益を擁護するのに役に立つことであれば何でもやる、というだけのことであって、いわゆる民主、自由、人権でさえも、必要があれば与えるのである。
ただし、共産党の統治下で恵まれた「自由」には、何の法的保障もない。この「自由」なるものは、国際的大潮流の中で、中共が人民を麻痺させ思うままに操るための道具なのである。本来、それは中共の独裁的利益と合致するはずもなく、衝突するしかないものである。一旦、この衝突が中共の容認の限度を超えるまでに激化すると、中共はすぐさま一切の「自由」を奪い去ってしまう。中共の歴史の中で、言論が比較的自由な時期が何度かあったが、自由な時期の後には再び厳しい取締の時期がやってくる、ということが何度も繰り返されてきた。そこにこそ中共の無頼漢としての本性が現れているのである。
現在、インターネット時代となり、新華ネットや人民ネットを読むならば、そこには多くのマイナス情報が存在することに気がつくはずである。第一に、現在悪しきニュースがあまりにも多く、しかもあっという間に伝わるし、その分野での競争から報道しない訳にはいかない。第二に、こういった報道の基本は、党の利益に合致するということであり、「小さなものを罵っておいて、大局的には得をする」という手口で、悪いことの原因は全て個人に帰し、党とは関わりが無く、しかもその「問題解決の方法」では決まって、「党の指導でなければ解決できない」となっている。何を報じ何を報じないか、報じるとすればどの程度か、報道は大陸のメディアから出すのか海外の共同メディアに報道してもらうのか、いかにして悪しきニュースを「昇華」させて民心を掌握するかなどについて、中共は非常に熟達しているのである。
多くの大陸の若者は、中共の言論はかなり自由だと思い込んでいる。そこから中共に対して恩愛を覚え、希望を抱き、最終的にこの手の「精緻な」無頼のメディア戦略の犠牲となってしまう。更に、社会の局面を混乱させるために適当なマイナスの報道と組み合わせることによって、人民に対して、中共の強権がなければ時局を収められないと人々を脅かし、中共に賛成する以外の道を絶ってしまうのである。
だから、中共が人権を改善するという善意を示すことがあったとしても、体質が変わったなどと思わないほうが良い。かつて、国民党との争いの中では、中共は民主闘士を装っていた。無頼の本性からして、中共の一切の承諾は当てにならないのである。
五、中共の無頼漢としての様々な面構え
(一) 虚栄を求め、国を売る。統一のためというのは口実で、実は国土を売り渡したのである
「台湾を解放しなければならぬ」、「台湾統一」というのは、中共が数十年にわたり言い続けているスローガンであり、自分が民族主義と愛国主義の守り神であるかのように振る舞っている。中共の本当の関心事が国家領土の保全にあるのかと言えばそうではない。台湾は国民党と共産党の争いがもたらした歴史的問題として残っているだけのことであり、中共は相手を叩く口実として使い、人心の籠絡に使っているに過ぎない。
早期の中共が国民政権の下で打ち立てた「中華ポリシェビキ」での「憲法」第十四条では、「中国内の各少数民族、更に各省は、独立自治することができる」とある。ロシアに呼応して中共も、「ポリシェビキ〔レーニンの率いるロシア社会民主党ポリシェビキ派(後のソ連共産党)〕を守る」ことをスローガンにした。抗日戦争中、中共の最大の狙いは、それを利用して自らの規模を拡大することであった。1945年、ソビエト共産軍が東北部に進入し、強姦や略奪を働いた時にも、更にはソビエト共産軍が外蒙古を独立させた時にも、中共は何ら抗議をしなかった。
1999年末、中共とロシアは「中ロ境界調査協定」を締結し、それによって、清朝がロシアとの間で結んだ一連の不平等条約を承認し、台湾の数十倍にも相当する100万k㎡あまりの国土を売り渡した。また、2004年の「中ロ東部国境補充協定」によって、黒龍江省黒瞎子島の半分の主権を失ったと言われている。
その他の境界分割や南沙群島、さらには魚釣島の主権に関しては、中共は、政権維持に何の利もないと考え、全く重要視していない。また、「台湾統一」は、中共が国内問題を衆目からそらせ、民族主義を煽り立てる無頼の常套手段である煙幕を張っているに過ぎない。
(二) 道徳的抑制のない政治上の無頼漢
政府はすべからく監督の下に置かれるべきである。民主国家にあっては、その分権的政治制度と言論、報道の自由が、格好の監督機能を果たし、宗教の信仰は更に道徳上における自己規制を提供することになる。
共産党は無神論を標榜し、神による道徳的規制がない。また、ひたすら集権専制を進めているため、政治上の法的拘束もない。それ故、中共無頼漢に対しては、天も法も妨げるものはない。ならば、中共が人民にどのように説明しているかを誰が監督するというのか。「自己」である。これこそ、中共が数十年もの間人民を騙し続けてきた口癖である。早期の「自己批判」から、後の「自己」監督や「自ら」党の指導を整えるということまで、そして最近の「自ら」党の執政能力を向上させるということまで、中共が強調しているものは、共産党はいわゆる「自己改善」の強大な能力をもっているということである。党は口で言うだけでなく、更に行動も起こし、「中央紀律検査委員会」、「信訪オフィス」(陳情受付所)なる人々を惑わす飾り物的な機構をも設立した。
道徳と法律の拘束のない「自己改善」は、伝統的な言い方に従えば「自心生魔」(自らの心に魔を生ずる)である。これは中共が外界からの監督、党、報道の開放を拒絶するための口実であり、政治無頼漢が、その集団の利益と執政の「合法性」を守り、人民を欺くためのものにしか過ぎない。
政治無頼漢としての手腕は中共の得意とするところである。「人民民主的専政」、「民主集中制」、「政治協商」などの言葉は人を騙すためのものに過ぎず、「専政」以外これらのスローガンは全くの偽りである。
(三) 抗日戦争からはじまり、反テロ闘争に到る虚構の上に、陰謀詭計を図る
中共はこれまで一貫して、中国共産党が全国人民を指導して日本人を打ち破ったと称してきた。しかし、多くの歴史的資料から、中共は当時の抗日戦争には敢えて参加せず、国民党が戦っている間に力を蓄え、後ろから足を引っ張って抗日戦争の邪魔をしていたことが明らかとなった。
中共が唯一参加した大型会戦は、「平型関戦役」と「百団大戦」のみである。「平型関戦役」について言えば、「主力部隊として戦闘を指揮し参加した」わけではなく、敵軍の補給部隊へのゲリラ攻撃を行ったに過ぎなかった。「百団大戦」については、中共の内部では、党中央の戦略方針に背いて行われたものだと考えられている。その後、毛沢東及び中共は、戦闘らしい戦闘に加わったことがないばかりか、董存瑞、黄継光といった抗日の英雄を生み出すこともなかった。ただ数人の高級軍官が抗日戦で殉死しただけであり、今日に至るまで、その死傷者数を明らかにすることすらできず、しかも広大な中国大陸において、抗日烈士(抗日戦で戦死した兵士)の記念碑を見ることも、極めて稀である。
当時の中共は抗日戦のはるか後方でいわゆる「陜甘寧辺区政府」を樹立した。現代風に言えば、それは「一国二制度」であり、国の中に「二つの中国」を作ったのである。戦闘員の中には抗日の熱情に燃えていたものもあったが、中共の高層には抗日の意志はなく、目的を持って計画的に兵員を温存しつつ己の力を蓄え、この戦争を利用して己の力を強大にしようとしたのである。中日国交正常化に当って、毛沢東は時の日本の首相田中角栄に心境を吐露した。「中共は日本に感謝しなければならない。あの抗日戦争がなければ、中共が天下を取ることはできなかった」。
これが、中共が自称する「全国人民を率いて八年間の抗戦中指導を続け、最後の勝利に導いた」という大嘘の真相である。
半世紀後、米国に911テロが起こり、反テロが世界の潮流となると、中共は又しても抗日戦で使った無頼漢的詭計を用いた。反テロを口実として、多くの宗教信仰、批判分子、地域、民族紛争などの団体をテロ分子とし、国際的な反テロ機運を隠れ蓑に、ほしいままに暴虐な弾圧を行ったのである。
2004年9月27日、新華社が『新京報』のニュースを転載して、北京におそらく、全国の各省市の中で最初の反テロ部局が設立されるであろうと伝えた。海外の一部の親共メディアは更に、「610オフィスが反テロに加わる」(610は法輪功迫害専門組織)の表題で大げさに報道し、法輪功を含むテロ組織を攻撃することに重点を置くと公言した。
中共は、心に寸鉄もなく、殴られても殴り返さず、罵られても罵り返すことのない平和的陳情に来た民衆をテロ分子とし、完全武装した「特殊反テロ部隊」を出動させ、非力な民衆と善良な人々をすぐさま叩き潰すのである。更に「反テロ」という口実で海外からの批判と譴責を逃れるという、抗日時に見せた無頼漢的手法と全く同じ手法を使い、国際社会で行っている「反テロ」活動に恥辱を与えている。
(四) 表では敬い影では裏切ると言う手口で、真剣に形式だけ整える
「自分では信じないのに、他人には無理やり信じさせる」というのが、中共という邪教の最も無頼漢的な手口の一つである。中共自身が共産党の教義はすべてでたらめであり、社会主義は詐欺であり、既に破綻していることを熟知しており、自ら信じていないにも拘らず、人には信じることを強要し、信じないものは弾圧するということを行っている。しかも、最も荒唐無稽な破廉恥なことに、党はこれらの欺瞞論理を憲法に取り入れ、立国の要綱としているのである。
現実の生活の中で、次のような面白い現象がある。中国の官界における政治闘争の中で、腐敗が原因で失脚した高官らは、昼は大会で大いに「廉潔奉公」を語り、夜になれば「賄賂を取り、道楽のし放題」という有様であった。元、雲南省長李嘉廷、貴州省委書記劉方仁、河北省委書記程維高、国土資源部大臣田鳳山、安徽省副省長王懐忠などのいわゆる「人民公僕」らはみな同じ轍を踏んでいる。彼らの講話を調べてみればわかることであるが、彼らは、一人の例外もなく、一方ではお金を横領し賄賂を受け取りながら、一方では各種の報告の中で繰り返し、「廉潔に政治を行い、腐敗への反発を強化しなければならない」と要求しているのである。
中共は多くのモデル的人物を作り出し、理想を抱き、前途有望な人々の入党を大きく宣伝し、党の外観を立派にしてきた。しかし、今日の中国の道徳水準の堕落がたとえようのない程であることは衆目の一致するところである。なぜ中共の「精神文化」の宣伝が機能しないのであろうか。
実のところ、共産党の首脳部が民衆を指導する時に語る、「共産主義道徳」、「人民に奉仕する」などは、ほとんどでたらめである。マルクスは私生児問題、レーニンは買春により梅毒感染、スターリンは歌手を無理やり囲い告訴、毛沢東の女漁り、江沢民の淫行、ルーマニアのシャウシェスク一家は権益を享受、キューバのカストロは海外の銀行に数億の蓄財、北朝鮮の金日成の子孫は豪遊の日々など、共産党リーダーの言行不一致は、元祖マルクスから始まっている。
中国人民は日常生活の中で、嘘で固められた空しい政治学習に厭気が差しており、「政治のことを語る」などといったことをいい加減にあしらっている。なぜなら、それは人を騙すためのものでしかないということをみんな知っているからである。政治の舞台の上にいる人も下にいる人も、お互いのやっていることが分かっていても、深く追求せず、暴くこともしないのである。この種の現象を人々は、「真剣に形式だけ整える」と称している。少し前の「三つの代表」、その後の「執政能力を高める」、最近では「人々の心を暖かくし、人々の心を穏やかにし、人々の心を得る」という「三つの心」などということを言っているが、それらは全て下らない無駄話である。
どこの執政政党が人民の利益を代表していないだろうか?どこの執政政党が執政能力を重んじないだろうか?どこの執政政党が人心を得るために働いていないだろうか?もしそうであれば、早々に政治舞台から追い落とされるのではなかろうか。しかし、中共はこうした中身のない話をさも奥深い精妙な理論であるかのように、全国民に凄まじい勢いで学習させるのである。
「形式だけ整える」ということが、知らぬ間に10数億の人民の習慣となり、「党の文化」現象となってしまった時、社会全体に「うそをつき、ほらを吹き、中身がない」という現象が起こり、信頼の危機が生じた。中共はなぜこのようなことをするのであろうか。昔は「主義」のためであり、今は「利益」のためである。「真剣に形式だけ整えている」のだとわかっていても、そのまま続けなければならない。このような方法をとらなければ、無頼漢らしいボス像がなくなり、人民に推戴されなくなり、人民が自分を恐れることがなくなるからである。
(五) 良識を殺し、個人の正義感を党の利益に服従させる
劉少奇が『共産党員の修養を論ずる』という本の中で、「党員個人の利益は、無条件に党の利益に服従する」と述べている。歴史的に見ても、中共の党員の中で、国を憂い、民を憂える正義の士と、人民の為になることを行おうとする廉潔な官僚がいることはいた。しかし、中共という利益追求集団の中では、こういった官僚に活路はなかった。そういった官僚は、「人間性は党性に服従する」という圧力の下で、そのまま続けることができなくなるか、または淘汰されるか、あるいは同じ穴の狢(むじな)になってしまうほかないのである。
人民には中共の血生臭さが骨身にしみている。そして、中共無頼漢の「強権」を恐れている。それ故、人々はもはや正義を擁護しようとはせず、公理を信じようともせず、最初は「強権」に服従し、その内感覚がなくなり沈黙し、我関せずという姿勢を貫くようになる。思考論理も自然に「強権」に従うようになってしまう。これこそ中共の暴力団的無頼漢の本性を示すものである。
(六)「愛国主義」とは、人民を緊急総動員するための邪教の号令である
中共は「愛国主義」、「民族主義」といったスローガンを、人々を騙すためのアメとして使っている。「愛国主義」「民族主義」は共産党の大きい旗(看板)であるだけでなく、何回試しても同じ良い結果をもたらすスローガンである。数十年にわたり国に戻ってこない華僑は、『人民日報』海外版によって、民族主義に関する宣伝を数年間読み続けるならば、国内の人よりも愛国の念が強くなる。また、共産党のいかなる政策に対しても「ノー」と言えない中国人であるにも拘らず、党の組織の下、「愛国主義」の御旗を掲げ、中国にある米国大使館や領事館に何らためらいもなく卵や石を投げつけ、車に火をつけ、星条旗を燃やすようなことを公然とする。
共産党はこのことを見定め、全ての中国人を服従させる必要のある大事に当っては、「愛国主義」、「民族主義」方式で民衆を緊急動員する。台湾、香港、法輪功、米軍用機衝突事件などについては、恐喝と集団洗脳で全国人民を一種の戦闘状態に引きずり込む。これはかつてのドイツにおけるファシストの手口とよく似ている。
情報封鎖をしていることで、党の洗脳は特に成功している。中国人は、たとえ中共が嫌いでも、物を考えるに当って、どうしても中共に洗脳された思考方式で考えてしまう。例えば、イラク戦争期間中、少なからぬ人は、中国中央テレビ局[4]の連日の報道による解説を見て、心がかき乱され、憎悪や復讐と戦いたいという強い感覚を覚えながら、戦争を罵っていた。
(七)厚顔無恥にも国家を党の下におき、人民に賊を父と呼ばせる
中共が人民に対する警告として常用している言葉は「党が亡べば国が亡ぶ」で、党が国の前に来るのだ。立国方針は「共産党がなければ新中国はない」である。人民が子供の時から叩き込まれることは、「党の言うことを聞く」、「党の好い子になる」である。歌わせられるものは、「私は党を母親と考える」、「党は私の愛する母」、「党の恩は海より深い」、「父親も母親も共産党の親しみ深さには及ばない」である。[5] 行動指針は、「党の指し向かうところそれに従う」であり、政府が救済活動を行った時は、「党と政府に感謝する」であり、「党」への感謝が「政府」への感謝に優先する。軍隊のスローガンは、「党が軍を指揮する」である。大陸の専門家が裁判官の服装をデザインした時も、襟につける4個の金色のボタンは、上から順に党、人民、法律、国家を象徴しており、たとえ裁判官と言えども、永遠に党が「法律」、「国家」及び「人民」の上にある。
「党」は中国にあっては無上の存在であり、「国家」は「党」の付属なのである。「国家」は「党」のために存在し、「党」は人民の化身であり、「国家」の象徴である。党を愛し、党指導者を愛し、国を愛することがまぜこぜになっている。これこそ中国の愛国主義が捻じ曲げられた根本原因である。
長期にわたる宣伝と洗脳の影響で、多くの党員、非党員ともに、意識的あるいは無意識のうちに党と国家の位置付けを誤り、「党の利益」が一切のものに優先すると考えるようになった。あるいは、「党の利益は人民の利益、国家の利益である」ということを黙認する。そして、そのことによって、中共の無頼集団に、「国家利益」を売り渡す大きな余地を与えたのである。
(八)名誉回復というトリックで罪を「偉業」に変えてしまう
歴史上、中共は多くの誤りを犯してきた。しかし、その都度「名誉回復」と言っては、個人や団体にその誤りを押し付け、被害者に恩に感じ徳を讃えることを強要し、中共の罪悪を無に帰すのである。「誤りを犯すことを得意としているだけではなく、自らその誤りを正すだけの勇気も持っている」というのが、死から免れるための妙薬であり、これにより、中共は永遠に「偉大、光栄、正確」な党となるという訳である。
いつの日か中共が、「六四」(天安門事件)、「法輪功」に名誉回復を行うことがあるかも知れない。しかし、それは行き詰ったことによるもので、余命をつなぐための無頼の手口であり、自ら反省し、自らが犯した罪を清算する勇気などはない。
六、無頼の本性の大暴露:「真・善・忍」を国家テロとして抹殺
中共邪教集団がやった「天安門焼身自殺の捏造」は、中共による世紀の戯言である。法輪功を叩くために、なんと政府たるものが5人を騙して法輪功学習者を演じさせ、天安門で焼身自殺を偽装させた。結局その場で口封じのため殴り殺された人もいれば、事後に口止めのために殺された人もいる。中央テレビ局で放映されたスローモーションの映像で見ると、劉春玲は警官になぐり殺されていることがはっきりと見て取れる。その映像から見られる王進東の座禅のしかた、消火後両足の間に挟まれたプラスチックボトル、医者と劉思影の会話、カメラマンの現場での配置などに多くの疑念や矛盾があり、この焼身自殺事件は、江沢民の無頼集団が法輪功を陥れるためにでっち上げたやらせであったことがはっきりと分かる。[6]
政党たるものが、最も卑劣で残忍な手口により、改革開放後二十数年来蓄えてきた国力を傾けて、党、政、軍、警察、スパイ、外交及び各種各様の政府及び民間組織を動員し、全世界を覆うメディアシステムを操縦し、人による監視から高度な科学技術までを動員して完全な情報封鎖を行い、修養を積み精神を涵養する平和的団体に対処しているのである。これこそ中共の無頼的本性を徹底的に曝け出したものである。
歴史上、いかなるならず者、無頼漢といえども、江沢民と中共のやっているような徹底した戯言は例を見ない。一人一人の心の中にある各種の観念に応じて、それに適している戯言を用意し、あらゆる人に対し、そのデマを信じ込ませ、法輪功はその人達にとっての仇であると思わせているのである。
「貴方は科学を信じますか?法輪功は迷信です。あなたは政治に反感を持っていますか?法輪功は政治に介入しています。あなたは他の人が金を儲け海外へ行ったことを妬みますか?法輪功は金集めをしています。あなたは組織に反感を感じますか?法輪功は厳密な組織を持っています。何十年も続いている個人崇拝に嫌気がさしていませんか?彼等は精神コントロールをしています。愛国心は高いですか?法輪功は反中国です。社会の安定を望んでいますか?法輪功は社会の安定を破壊しています。法輪功は「真・善・忍」を説くと言うのですか?法輪功は真でも善でも忍でもなく、善の心から殺意の心を生み出しています」と言うのである。
政府はもうこれ以上嘘をつかないであろうか。決してその様なことはなく、自殺事件から焼身自殺まで、家族の殺害から他人の殺害まで、一人を殺すことから多数の人を殺害することまで、人々が信じざるを得なくなるまで、更に拡大し撒き散らすのである。もし、法輪功に同情している人がいれば、その人の業績を法輪功問題と関連付け、法輪功学習者が北京へ陳情に出かければ、その学習者の関係者を失職させ、失業させ、ボーナスなどを没収し、法輪功と敵対せざるをえなくさせる。更に、数多くの法輪功学習者を洗脳班に送り、捻じ曲げられた理屈、家族の愛情、就職、就学で圧力をかけ、家族や同僚に対して連座で脅し、その上拷問や酷刑を加え、なんとしても煉功しないという誓約書を書かせ、正しい信念を放棄させるのである。そして、洗脳によって転向させられた人を使って、他の人も転向するように仕向けるのである。無頼漢たる中共は、人を鬼へと変え、人に悪の道を辿らせどん底まで陥れるのである。
七、「中国的」な無頼の社会主義
「中国的」というのは中共の目眩ましである。中共は一貫して、中国革命が成功したのは、「マルクス・レーニン主義と中国革命の具体的な実践が相結合した」からであるとしている。「特殊性」を濫用するのが中共の一貫した手口であり、それが、変転極まりない無頼の政策の理論的下地となっている。
(一)変転極まりなく、密かに悪事を働く
こういった無頼な「中国的」という看板の下で、中共が達成したものを見ると、荒唐無稽であり、笑止千万であるとしか言えない。
共産党革命の目的は、生産資源の公有制を実現することで、多くの共産主義の理想を求める青年を騙し入党させた。その中の少なからぬ人々は、元来資産家の子息であり、家業に背くことになった。83年が経過した今日、資産階級が再び戻って来たが、それも当初「大同」の旗印の下にあった共産党自身の変身なのである。現在、中国共産党指導者の子女や親族で、巨万の富を持つ新資本家は、枚挙にいとまのないほどである。そして、多くの共産党員が先を争ってこの隊列に加わろうとしている。共産党は革命の名義の下に、地主と資本家を消滅させ、彼らの私有財産を掠奪した。現在、党の成り上がり高官たちは腐敗汚職に染まり、昔の資本家よりもさらに資産のある官僚資本成り金となったのである。党に付き従って天下を取ろうとした人達に言わせれば、「先にこれを知っていれば、あんなことはしなかった」と言うことになろう。数十年の流血奮闘の挙げ句、今になって見れば、自分の家族の財産と己の一生を共産党という邪教に捧げてしまっただけなのである。
共産党は、経済基礎が上層建築[7]を決定すると言っているが、現実には、党内の汚職役人による官僚経済基礎が上層高圧建築を決定しており、それ故に人民を弾圧することが党の基本政策路線となっている。
中共のもう一つの無頼の特性は、人類文化のあらゆる概念の意義をすり替え、変異させた概念をもって全ての人民を批判し、独裁を行うことである。党について言えば、人類社会において、結党という現象は内外を問わず古くから普遍的に見られる。しかし、共産党だけは、党集団の利益という範疇を完全に飛び出してしまっている。一旦党に加入したならば、党が個人の人間性、生存、そして私生活に至るまで一切をコントロールすることになる。党に権利を譲渡したならば、党は社会、政府、国家機関の一切をコントロールする。大きなところでは、誰が国家主席になり、誰が国防大臣になり、どんな法令を制定するかまで、そして、小さなところでは、誰がどこに住んで良いか、誰と結婚するか、子供は何人生むかに至るまでコントロールし、しかもこれらの制御方法を果てしなく広げているのである。
中共は弁証法という名目の下、哲学的な円融思考形式や思考能力及び探究精神を徹底的に破壊した。共産党は「労働に応じて配分する」と言いながら、「一部の人を先に豊かにさせる」という移行過程によってできあがったのは、「権力に応じた配分」である。「誠心誠意人民に奉仕する」という名目で、美しい理想を抱いている人々を欺き、そしてその人々を洗脳し全面的にコントロールし、やがて、その人々を「誠心誠意党に奉仕し」、人民のために請願などしようとしない従順な道具に変えてしまったのである。
(二)「中国的」な無頼漢政党
党の利益の為には一切を顧みないという原則を持つ中共は、邪教的運用方式によって中国社会を捻じ曲げ、人類社会の中に本当の異端を作り出した。この異端は、いかなる国家、政党、団体とも異なる。その原則は無原則であり、その微笑の裏にはいかなる誠意もない。しかし、善良な人々は中共を理解することができない。なぜなら、彼らは、人類共通の道徳基準に照らして中共を推し量ろうとするのだが、そんな悪辣な無頼漢が一つの国家を代表しているなどということは、想像する術がないからである。党は、このような「中国的特性」によって世界の民族の仲間入りをしたのである。「中国的特性」は「中共無頼漢の特性」の縮図である。
中国の欠陥資本主義は「中国的社会主義」に変わり、「失業」は中国的な「待業(就職を待つ)」に変わり、「解雇」は中国的な「職場を離れる」に変わり、「貧困」は中国的な「社会主義の初期段階」に変わり、言論、信仰の自由といった「人権」は中国的な「生存権」に変わった。
(三)国家の無頼化、中華民族は空前の道徳危機に直面している
90年代初め中国で、「俺はならず者だ。誰も恐くない」という言葉がはやり始めた。これこそ、中共が数十年にわたり無頼な政治を行った結果であり、国家の無頼化である。中国の見せかけの経済繁栄に伴い、社会道徳が全面的に堕落したのである。
中国人民代表大会開催期間に「誠実信用」問題が高らかに唱えられ、中国の大学入試でも「誠実信用」という題の作文が課せられた。ここからも、「誠実信用の喪失」と「道徳問題」が、中国社会が直面している、目に見えないが至るところに存在する巨大な危機となったことがわかる。汚職腐敗、偽札横行、詐欺横行、人心の卑劣化、世情の悪化、人と人の信頼の欠如が起こっているのである。
口々に生活が改善され満足しているという人々にとって、生活の安定こそ最も関心を持っていることではなかろうか。社会が安定する最も重要な要素は何であるか。それは道徳である。道徳の欠落した社会に安全の保障はない。
今日に至って、中共はほとんど全ての伝統宗教を弾圧し、伝統的な価値観を破壊し、手段を選ばずに財を掠め取り、手段を選ばず人民を欺き、上の梁が曲がったため下の梁が歪み、社会全体を急速に無頼化している。無頼漢的手段で政治を進める中共にとっては、本質からしても、その生存環境として無頼化した社会が不可欠であるため、あらゆる手段を講じて、人民を悪事に引きずり込み、中国人民を様々な程度の大小異なる無頼漢に仕上げようとしている。中共の無頼としての本性は、このようにして中華民族を守りつないでいる道徳の基盤を破滅させているのである。
結び
「江山は改め易く、本性は移し難し」。[8] 歴史が証明する通り、中共が手枷足枷を緩めるのは、別に鎖を捨ててしまうことを意味しているわけではない。前世紀60年代初めの大飢饉の後、「三自一包」[9]なるもので農業生産を回復したが、それは中共に農民の「農奴」的地位を改めようとする意図があった訳ではない。80年代の「自由化」と「経済改革」も、1989年の人民虐殺にいささかの影響を与えるものではなかった。今後とも、中共が何か表面的なことを変えたとしても、無頼漢としての本性を改めることなどあり得ないのである。
状況がすっかり変わり、この党は昔の党とは違うと感じ、目の前にある偽りの姿に満足し、さらには共産党が改善された、あるいは改善されつつある、あるいは改善しようとしているというような誤った認識を持つことによって過去の記憶が絶えず薄れていけば、中共無頼漢集団に、存続し続け、人類に害を及ぼすチャンスを与えることになる。
共産党は、人々に「忘れさせる」ためにあらゆる努力をし、人々は、何とかして「覚えておく」ためにあれこれとあがくのである。
事実、共産党の歴史は人民の記憶を断ち切る歴史であり、後の世代が前の世代の真相を知らされていない歴史であり、億万の人民が過去の共産党に対する呪いと現実の共産党に対する期待という巨大な矛盾の中に生き、苦難を経験してきた歴史である。
共産主義という邪霊が人の世に下りてきて、共産党が無頼の一揆と無頼の革命で政権を奪い、この世に足場を定めて以来、血生臭い暴政で、「党という憑き物」による専制社会を打ち立て維持してきた。自然に反し、天理に背き、人間性に反し、宇宙にも反する、いわゆる「闘争」精神によって、人類の良識と善意を破壊し、伝統文明と道徳観念を壊滅させ、血生臭い虐殺と強制洗脳で全国民を狂わせるような共産邪教の統一国家を作り出したのである。共産党の歴史の中で、赤色恐怖が頂点に達した狂乱の時期も、滅亡しそうになり荒野へ落ち延びた時期もあった。しかし、共産党は、そのたびに、無頼の手口で逃れ、人民を愚弄し続けては、次なる狂乱へと向かうのであった。
人々が皆共産党の無頼としての本性を認識し、その欺きに騙されなくなった時が、中共とその無頼の本性が終焉を迎える時である。
中国5千年の歴史に比べれば、中共による50数年の統治はあっという間のできごとである。中共の存在しない時代に、中国は人類史上に残る輝かしい文明を創造した。中国の内憂外患という機に乗じて居座った中共が、中華民族に巨大な災難を与えた。この災難によって、中国人は、数千万人の生命と無数の家庭の破壊という代価を支払わされ、民族の生存に欠かせない生態資源をも犠牲にしたばかりでなく、更に重大なことは、民族の道徳資源と優れた文化伝統がことごとく破壊されたのである。
中国の未来はどうなるのであろうか。中国はどこへ向かうのだろうか。こういった重要な問題は、複雑で一言で述べるのは甚だ難しい。ただ、一つだけはっきりしていることは、中華民族の道徳を建て直し、人と自然の関係を改めてはっきりと認識し、人と人が和やかに共存するための信仰と文化を取り戻すということがなければ、中華民族に輝かしい未来はあり得ない。
中共の数十年に及ぶ弾圧と洗脳によって、その思考方式と善悪の基準が中国人の生命の深層にまで入り込んでしまった結果、人々はある程度その歪んだ理論を受け入れ、認めてしまい、さらにはその一部分となって、中共にその存在意識形態の基礎を提供しているのである。
生命の中から、中共に注ぎ込まれた一切の邪説を取り除き、全ての悪を揃えている中共の本質を明らかにし、人間性と良識を取り戻すことが、共産党のない社会に穏やかに移行するために必須の道であり、その第一歩なのである。
その道が平坦で穏やかであるかどうかは、中国人一人ひとりの内心の変化にかかっている。中共は、表面上は一切の国家資源と暴力機器を持っているが、各人が真理の力を信じ、道徳を重んじるならば、中共という邪霊は身を置く場所を失い、一切の資源は、瞬時にして正義の手に戻るかもしれない。それは、中華民族再生の時でもあるのだ。
中国共産党がなければ、新たな中国が生まれる。
中国共産党がなければ、中国には希望が生まれる。
中国共産党がなければ、正義を重んじる善良な中国人民が必ずや再び歴史に輝きをもたらす。
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