【第八評】中国共産党の邪教的本質
目 次 |
一 共産党の邪教的特徴 |
二 共産党邪教がもたらす危害 |
三 共産党邪教の本質 |
四 共産党の終末論—「党が滅びる」ことに対する危惧 |
五 共産党邪教が存続のために講じた手段、即ち残酷な闘争 |
六 共産党邪教の悪変 |
七 共産党邪教による統治への反省 |
【第一評】【第二評】【第三評】【第四評】【第五評】【第六評】【第七評】【第九評】
【引用元】https://www.epochtimes.jp/p/editorial/9ping-8.html
序文
20世紀、90年代初頭、旧ソ連を始めとする社会主義の陣営が崩壊し、約百年も続いた共産国際運動が失敗に終わった。しかし、中国共産党は一つの異例として残り続け、しかも世界人口の五分の一を占める中国を統治している。ここに避けて通れないある問題が存在する。つまり、今日の共産党はまだ共産党なのだろうかという問題である。
まず、今日の中国において、中共を含めて共産主義を信じている人はもういない。五十数年間「社会主義」を唱えてきたが、今は株式制、私有制、外資企業を導入し、労働者を最大限に圧迫し、共産主義の理想と相反する道を走っている。しかし、それと同時に中共は引き続き共産党の絶対的な指導権を握って離さない。2004年改定された新憲法の中には、相変わらず「中国各民族の人民は引き続き中国共産党の指導の下で、マルクス・レーニン、毛沢東思想、鄧小平理論及び「三つの代表」など重要な思想に導かれ、人民民主専制と社会主義の道を歩んでいく」という内容が盛り込まれている。
今日の共産党はあたかも、「豹は死んだが、その皮はまだ残っている。」[1]のように、中共に継承され、共産党の統治を維持している。では、中共が継承した共産党という皮、この組織は、その本質はいったいどういうものなのだろうか?
一、共産党の邪教的特徴
共産党の本質は実はほかでもなく、人類に危害を与える邪教なのである。
共産党は自身が宗教であると自称していないが、宗教的色合いを濃く持っている(表1参照)。立党当初、共産党はマルクス主義をこの世の絶対的な真理とした。マルクスを精神上の神様として崇め、共産主義という「この世の天国」をもって党員を惑わし、生涯共産主義のために身を投じるよう仕向けたのである。
共産党は正教とはっきりした違いがある。正統な宗教は皆神を信じ、善に向かい、人々の道徳を育成し、その魂を救うことを目的としている。これに対し、共産党は神を信じておらず、しかも古来の道徳に反対している。
共産党の行いは、それが邪教であることを証明している。階級闘争、暴力革命と無産階級専制を共産党の教義とし、残酷な暴力と虐殺によって成り立つ、いわゆる共産革命を引き起こした。共産党政権の赤色テロは一世紀ほど続き、世界半数の国家に影響を及ぼし、数千万人ないし一億人にも及ぶ人々の命を奪った。このような人間地獄を作り上げた共産党こそ、この世の最大の邪教である。
共産党の邪教の特徴について、以下六項目にまとめることができる。
(一)教義を作り上げ、己に反対するものを消滅させる
共産党はマルクス主義を教義として信奉し、それを「破ることのない真理」だと標榜している。共産党の教義の中に仁愛、寛容はなく、高慢で自尊自大以外はない。マルクス主義は生産と科学がまだ立ち遅れていた資本主義初期の産物であり、人間と社会との関係、人間と自然との関係についてまったく正しく認識していなかった。このような異端邪説は不幸にも、国際的な運動になり、百年にもわたってこの世を害し、結局実践によって間違いだらけであることが証明され、人々に棄てられた。
レーニン以来の共産党の指導者たちは共産党邪教の教義に新しい内容を加え続けてきた。レーニンの暴力革命の理論から、プロレタリア独裁下で革命を続行する毛沢東の理論、更に江沢民の「三つの代表」まで、共産党の歴史上この類の邪説が溢れている。これらの理論が実践の中で絶えず災難をもたらし、しかも前後矛盾しているのにも関わらず、一貫して正確であると標榜し、国民に学習するようにと押し付けてきた。
自らと異なるものを消滅するのは、共産党邪教が伝教する際に最も有効な手段である。共産党邪教の教義と行為があまりにもでたらめなため、暴力で自らと異なるものを消滅することによって人々に受け入れてもらうしかない。中国共産党は政権を奪取したのち、「土地改革」の中で地主階級を、「社会主義の改造」の中で資本家を、「反革命粛清運動」の中で民間の宗教勢力と元政権の人々を消滅し、「右翼反対運動」の中で知識人を黙らせ、「文化大革命」の中で伝統文化を根こそぎ破壊し、人々が「毛沢東語録を読み」、「忠字舞を踊り」、「朝指示を仰ぎ、夜報告し」などの儀式や運動により、共産党邪教が名実ともに天下を取ったのである。その後、毛沢東及び鄧小平の後、共産党は「真・善・忍」を信じている法輪功は共産党から国民の心を奪うのではないかと決め付け、法輪功を消滅させようと思った。それゆえ、大虐殺を目的とした迫害を起こし、今でも事態は収まっていない。
(二)教主崇拝、唯我独尊
マルクスから毛沢東まで、共産党の指導者の肖像は高く掲げられ人々に礼拝させ、指導者の絶対的な権威に対する如何なる挑戦も許されない。毛沢東は「赤い太陽」、「救世主」になり、彼の話なら「一言に一万言の力がある」とされていた。「普通の党員」である鄧小平はかつて皇帝の親のように中国の政治を司っていた(院政を敷いた)。江沢民の「三つの代表」は句読点を入れてもわずか四十数文字でしかないのに、まさに笑い話のようだが、中国共産党中央委員会第四次全体会議は「社会主義とは何か、どのように社会主義を建設すべきなのかという問題に答えを出し、どのようにどのような党を建設するのかの問題にも建設的に解答し、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論を継承し更に発展させたものである」とまで標榜した。
スターリンは罪のない人をむやみに殺し、毛沢東は文化大革命という大災難を発動し、江沢民は法輪功を弾圧しているなど、この全ては教主独裁によるものである。
中国共産党は『憲法』の中で、「中華人民共和国の全ての権力は人民に属している。人民が国家権力を行使する機関は全国人民代表大会と地方の各レベルの人民代表大会であり」、「如何なる組織または個人も憲法と法律を超える特権を有してはならない」[2]と規定したにもかかわらず、『党章』の中で中国共産党は「中国特有の社会主義事業を指導する際に核心であり」、党を国家と人民の上に乗せた。人民代表大会常務委員会の委員長は四方八方で「重要な談話」を発表し、人民代表大会が「最高」の国家権力機関であり、「党の指導」を堅持しなければならず、中国共産党の「民主集中制」という原則に基づき、全党は中央に従うべきであると言っている。はっきり言えば、「人民代表大会」が堅持しているのは「一党独裁」であり、しかも立法という形で「共産党」の「一党独裁」を保証している。
(三)暴力で洗脳、マインドコントロールを行い、緻密な組織を作り、入ることはできるが出ることができない
共産党という組織は非常に緻密で、党員になるには二人の紹介者が必要で、入党したら、党に永遠に忠誠であることを誓わなければならない。党員は党費を納め、党の定期的な勉強会に出席しないといけない。党の組織は各レベルの政権に存在し、各鎮、村、町内に党の組織がある。党は党員、党務だけではなく、非党員まで同様にその管轄下に置かれている。なぜならば、全ての政権は「党の指導を堅持しなければならない」からである。共産党教会の「神父」、即ち各レベルの党委員会の書記らは階級闘争の時代に、何をしても素人だが、人間を懲らしめることだけを最も得意としていた。
定期的な勉強会にある「批判と自己批判」は、長い間使われてきた普遍性のあるマインドコントロールの手段である。共産党は歴史上、数度にわたり、「党の粛清」「風紀を整える」、「裏切り者を探し出す」「AB団を殺す」、「党を正す」など周期的に暴力手段をもって党員の「党に対する意識」を養い、党に永遠に逆らわないようにしてきたのである。
入党すれば、共産党に身を売ったと同じである。国の法律の上に更に党の綱紀がある。党は党員を除名することができるが、個人としての党員は離党しようと思ったら、多大な代価を支払わなければならない。離党すれば、党の裏切り者になる。更に、共産党邪教が天下を統治していた文化大革命の時代に、党から死ねと言われたら、生きることができず、生きろと言われたら死んではならない。自殺したら、「自絶於人民」(自ら人民との“連帯”を絶った)と言われ、家族にまで被害を及ぼしてしまうのである。
党内の決定などは密室で行われ、党内闘争はこの上ない秘密であり、党が発行した文章は機密文書である。悪いことをしたら暴露を恐れ、何かあったらすぐ「国家機密漏えい罪」で異議を唱える人を懲罰する。
(四)暴力を吹聴し、殺戮を崇め、教えのために死ぬことを奨励する
毛沢東は「革命はお客さんを招待することではなく、文章を書くことでもない、絵を描いたり花の刺繍をしたりするような上品なことではない。革命は暴動であり、一つの階級がもう一つの階級をひっくり返す強烈な行動である」と言っていた。[3]
鄧小平はまた、「二十年の安定のためなら、二十万人を殺してもよい」と述べた。
江沢民は「肉体を消滅させ、名誉を毀損し、経済から断ち切る」と話した。
共産党は暴力を吹聴し、今までの政治運動の中で、数え切れないほどの人間を殺し、「敵に対し厳冬のように冷酷無情であるべきだ」と国民を教育してきた。赤い旗は「烈士の血によって染められてできたものだ」とされている。共産党の赤に対する崇拝は実は血に対する崇拝である。
共産党は英雄を手本として立て、党のために命を捧げることを奨励してきた。延安で阿片を生産する竈で死んだ張思徳について、毛沢東は「彼の死は泰山[4]より重い」と評価した。あの気が狂った時代に、「苦も死も恐れない」「命を捧げる勇気と高い志を持つために、日も月も新たにすることをも辞さない」などの豪言に実は物質の貧困に追い詰められたときの狂気が入っていた。
七十年代の終わり頃、ベトナム共産党が出兵し、中国共産党が育ててきた、極悪非道の「クメール ルージュ」政権を覆した。中国共産党はいくら不満であっても、中国とカンボジアの間に直接の陸上輸送ルートがないため、直接軍隊を派遣することができなかった。したがって、中国共産党は「対ベトナム自衛反撃戦争」の名の下で、ベトナム共産党を懲らしめるため、中国とベトナムの国境で戦争を起こし、数万人の中国兵士がこの共産党の間の闘争のために尊い命を捧げた。彼らの死は実は国家領土の主権とまったく関係はない。数年後、中国共産党はただの一曲の歌「血に染められた風采」をもって、無意味に犠牲になった若い生命が「革命英雄主義の精神」に対し捧げられたとして片付けた。しかし、1981年百五十四名の兵士の命を失って奪還した広西法 山は共産党がベトナムとの国境線を決める時、あっさりとベトナムに渡したのである。
2003年、「SARS」が流行っていたとき、中国共産党は若い看護婦たちを「第一線で入党させ」、そして病院に彼女たちを閉じ込め、感染された患者の看護をさせた。これらの若い人を最も危険な第一線に行かせ、これを機会に共産党の「苦も死も恐れない」輝かしい姿を打ち立てようとした。しかし、この時江沢民は死を恐れ、側近を率いて北京から上海へ逃れ、SARSから逃げていたのである。
(五)神の存在を否定し、人間性を扼殺する
共産党は無神論を宣伝し、宗教は人間を麻酔させる「精神的なアヘン」であるとし、自分の統治範囲内で全ての宗教を消滅し、またはそれを征服した。そして、自らを神のように仕立て、共産党邪教で天下統治を実現させた。
共産党は宗教を破壊していると同時に、伝統文化をも破壊した。共産党は伝統、道徳、倫理を封建、迷信だと言い、革命の名の下で排除した。文化大革命の中で、多くの夫婦は互いの弱点を暴露しあい、学生が先生を殴ったり、親子が反目したり、紅衛兵が罪のない人をむやみに殺し、造反派は物を壊したり人を殴ったりするなど、中国の伝統文化に反する醜悪な世相を造った。これはまさに、中国共産党が人間性を扼殺したことの結果である。
建国して以来、共産党は強制的に少数民族を共産党の指導に従わせ、豊かな民族文化もこれによって喪失し、または変異してしまった。
1989年の「天安門事件」の時、「人民の子弟兵」は北京で惨殺を繰り広げ、国民は政治に対して完全に失望し、その後人々はお金に目が眩むようになった。
1999年から今日まで、法輪功に対して残酷な弾圧を加え、「真・善・忍」を敵とし、それにより社会の道徳は著しく低下した。
新しい世紀に入ってからも、新たな立ち退きや金品の搾取によって多くの民衆は路頭をさまよう生活を強いられ、陳情する人は激増し、社会の対立はますます激化した。[5] 大規模な活動が多発したが、軍隊と警察の暴力と武装鎮圧の餌食とされた。「共和国」のファシズム的本性は突出し、社会にもはや道徳は存在しない。
以前「ウサギは巣の近くの草を食べない」ということを良いこととされてきたが、最近は人を騙す時、親戚友人などを騙し、「親しい人から利益を取る」と言っている。以前中国人は貞操を最も大事にしていたが、今は「貧しい人が軽蔑されても売春婦は軽蔑されない」というようになってしまった。医者や教師は最も尊敬されていた徳のある人だったが、今は病院では患者のお金を騙し取り、学校は手を緩めることなく学生からお金を搾取している。中華民族の人間性と道徳が全滅した歴史が、ある民謡によって如実に表現された。「五十年代、人間は助け合う、六十年代、人間は懲らしめあう、七十年代、人間は人を嘲る八十年代、人間は自分のことしか考えない、九十年代、人間は騙しあう」。
(六)武力で権力を奪い、経済を独占し、政治経済に対して野心を抱いている
共産党が設立された当時の趣旨は武力で政権を取った後、国有制と独占的な計画経済を実施するというものだった。共産党の野心の大きさに驚かずにいられない。普通の邪教の蓄財レベルはそれとまったく比べることができない。
共産党が統治している社会主義公有制の国の中では、通常の国家機構の上に権力のもっと大きい党の組織、つまり各レベルの党委員会とその支部が設置されている。党は国家機器に憑依し、直接各レベルの政府から費用を集める。共産党はあたかも吸血鬼のように、国と社会から数え切れない程の財産を奪うのである。
二、共産党邪教がもたらす危害
「オーム真理教の地下鉄サリン事件」「ライフサイエンスの集団自殺」「人民聖殿教九百人信者の集団自殺」などのことを言うと、皆鳥肌が立ち、憎悪の念を抱く。しかし、共産党という邪教はそれより千万倍の人々に危害を加えてきた。なぜならば、共産党邪教には通常の邪教がまねできないところがあるからである。
(一) 邪教を国教としている
通常、ある国において宗教を信じていなくても、その宗教の本を読まなくても、その教義を聞かなくても、普通に生活を送ることができる。しかし、中国大陸で暮らしていれば、共産党の邪教の教義とその宣伝を聞かざるを得ない。なぜならば、共産党は政権を奪取し、共産党邪教を国教にしてしまったからである。
共産党は幼稚園と小学校の教育から教義を人々の頭に詰め込んだ。進学や昇進試験の時、必ず政治という教科のテストがある。出題は学生の独立した考えで完成できるものではなく、必ず共産党が出した標準回答を丸暗記してはじめて回答できるものである。気の毒な中国人は試験のために、子供の時からおのずと共産党の説教を重ねていき、繰り返し自らを洗脳していた。政府部門の場合、幹部が昇進されたら、共産党員かどうかに関わらず、共産党大学で勉強しなければならない。合格してからやっと昇格されるのである。
共産党を国教としている中国は、如何なる団体に対しても異見を持つことを許さない。政治の飾り物である「民主党派」と改造された「教会」は共産党の指導に従わなければならないと宣告された。まず共産党に忠実に従い、それから神様を信奉する、これはつまり共産党邪教の論理である。
(二)社会を極端にコントロールしている
共産党邪教は、共産党の国民に対するコントロールと自由の剥奪を基礎にして、国教になった。このコントロールは空前絶後のものである。共産党は国民個人所有の財産を奪った。しかし、私有制は自由の基礎である。八十年代以前の中国では、都市部の人は党が管轄する企業で仕事し、農民は(党の)公社の土地で働くしかない。誰も共産党のコントロールから逃げることができない。社会主義の国では、共産党の組織は中央から村や町内会まで置かれており、党委員会、支部など各レベルの党の組織を通じ、社会をしっかりと自分のコントロール化に置いた。この厳しいコントロールにより、国民は完全に自由を失い、住居地移転の自由(戸籍制度)、言論の自由(五十五万人の右派分子は言論罪を犯した)、疑う自由(林昭、張志新は党に疑問を抱いたため殺害された)、情報入手の自由(出版禁止の本を読むことや、「敵対国のラジオ」を聞くのも罪になる。ネットにアクセスする時も監視されている)などなどがある。
一方、中国共産党は現在、私有制を認めているではないかと言う人がいる。しかし、社会主義制度によって、国民は食料さえ確保できない境地に立たされ、「国民経済は崩壊する寸前まで来てしまい」、共産党は滅びる危機から逃れるため、一部譲歩して存続を図るためにやむを得ずそうしたのである。改革開放以来、中国政府は国民へのコントロールを緩めることなく、今でも法輪功の学習者を厳しく弾圧している。こういうことは共産党の国だけに現れてくる。もし中国共産党が本当に思うとおりに経済の巨頭になったら、国民に対するコントロールは今まで以上のものになるであろう。
(三) 暴力を崇め、生命を軽視する
ほとんど全ての邪教は暴力で信者をコントロールし、または外来の圧力に対抗している。しかし、共産党のように憚ることなく暴力手段を使うものはない。全世界の邪教に害され死んでしまった人を全部合わせても、共産党邪教が殺した人数とは比べ物にならない。共産党邪教から見れば、人間は目的を達成するための手段であり、殺人も一つの手段である。したがって、共産党は国民を迫害する際、まったく憚ることなく行い、誰もが迫害される対象になりえる。その中には党の支持者、党員、党の指導者までもが含まれている。
中国共産党が育てた「クメール・ルージュ」は、共産党邪教の残酷さと生命に対する軽視を物語っている。毛沢東思想の指導によって、ポル・ポトを中心としたカンボジア共産党は「私有制を消滅する」ために、執権した三年八ヶ月の間、人口が八百万足らずのこの国で、二百万人が殺害された。そのなかには、二十数万人の中国人も含まれている。
共産党の罪悪を忘れないようにし、また亡くなった人を記念するために、カンボジアは「クメール・ルージュの罪悪展示館」を作った。展示館はかつて高校の校舎であったが、ポル・ポトによって思想犯を監禁するS-21監獄に改築されていた建物である。多くの知識人がここに閉じ込められ、拷問を受け亡くなった。今日、S-21監獄は「クメール ルージュの罪悪展示館」に改築された。中には牢屋と各種の拷問器具、そして全ての犠牲者が処刑される前に取られた写真などが陳列されている。その中には、咽喉を切る、ドリルで頭を貫通する、生きた赤ちゃんを床に投げつけるなど思わず目を覆ってしまうような写真もたくさんある。これら全ては、中国共産党から派遣された「専門家と技術者」から教わったことである。処刑される前に、保存と観賞のために写真を取ったカメラマンも中国共産党からトレーニングを受けていたのである。
更に、このS-21監獄は、カンボジアの指導者専用の栄養剤を作るため、頭を貫通させる機械を開発し、人間の脳を取り栄養剤を作った。彼らは処刑される思想犯を椅子に縛りつけ、機械の前に置き、被害者を極度の恐怖に陥れながら、ドリルをまわし、後頭部から入り、生体から脳を取りだした。
三 共産党邪教の本質
なぜ共産党はこれほど凶暴で邪悪なのだろうか?共産党という「亡霊」がこの世に来た時に、非常に恐ろしい使命を背負っていた。『共産党宣言』の最後に非常に有名な一節がある。
「共産党員は自らの見解と目的を隠しごまかすことを潔しとしない。彼らは、自分たちの目的は、暴力により全ての現存する社会制度を覆して初めて達成できると、公然と宣言するのだ。統治階級を共産主義革命の前で怯えさせよう。プロレタリアがこの革命の中で失うのは鎖であり、彼らはこれから全ての世界を得ることになる」
この「亡霊」の使命はほかでもなく、公に暴力で人類社会に挑戦し、旧世界を打ち壊し、「私有制を消滅させ」「資産者の個性、独立性と自由を消滅させ」、搾取を消滅させ、「家庭を消滅させ」、世界はプロレタリアに統治される。
この政党は公に「人間をいじめ、物品を壊し、建物を崩壊させる」と宣言し、この考えが邪悪であることを認めるどころか、『共産党宣言』の中で、胸を張って次のように述べた。
「共産主義の革命はほかでもなく、従来の所有制関係と徹底的に決裂することである。何も驚くことではないが、共産主義は自らの発展の過程で、伝統的な観念とも完全に決裂する」。
社会の伝統的な観念はどこからきたのだろうか?無神論の自然の法則から言えば、自然の規律と社会規律の必然的な結果であり、宇宙の運動の結果なのである。有神論の観点から言えば、人類の伝統と倫理道徳は神から人間に伝えられたものである。その起源がどこにあるかに関係なく、最も基本的な倫理道徳、行動規範、善悪の基準は相対的な不変性を有し、千年来人類の行動を規制し、社会存続の基礎を維持してきた。もし人類に道徳の規範と善悪の基準がなければ、人間は獣になってしまうのではないのだろうか?『共産党宣言』は「伝統的な観念と完全に決裂する」と決め、人類社会の正常を保つ基礎を脅かす存在となり、従って、共産党は人類を破壊する邪教であると断言できるのである。
『共産党宣言』という綱領を規定した文章の中に、執拗な偏執がいたるところに見受けられるが、仁愛と寛容の心についてはまったく触れていない。マルクス、エンゲルスは唯物主義を通じて、社会の発展の規律を発見し、真理を手にしたと思い込み、全てを疑い、否定し、共産主義の幻を無理強いで人々に押し付け、暴力で現有の社会構成と文化の基礎を打ち壊すことを吹聴した。『共産党宣言』は新しく誕生した共産党にこのような、天理に反しており、人々の人間性を消滅しようとする極端な利己主義で思うままに全てをやってしまう邪な霊を注いだ。
四 共産党の終末論—「党が滅びる」ことに対する危惧
マルクス・エンゲルスは共産党に邪な霊を注ぎ、レーニンはロシアで共産党を作り、無頼らの暴力で二月革命[6]後の臨時政府を倒し、ロシアの資産階級革命の芽を摘んでしまった。政権を奪取した後、共産邪教のためにこの世での足場を確保した。しかし、革命が成功しても、プロレタリアらは全世界を手にすることができなかった。かえって、『共産党宣言』の冒頭に書いてあったように、「旧欧州の全ての勢力は」「連合し」、「この幽霊に対して聖なる撲滅を行おう」とされ、共産党は誕生してすぐ生存の危機に瀕してしまい、いつでも撲滅される危険と隣り合わせの状態であった。
十月革命[7]の後、ロシア共産党ボリシェビキが執政したが、国民に平和で豊かな生活をもたらすことなく、むやみに人を殺していた。前線の敗戦が続く中、後方の経済は革命によって悪化する一方であった。そして国民は蜂起し、瞬く間に内戦が全国に広まった。農民は都市部に食料の提供を拒否し、ドン河流域で大きな暴動が起き、赤軍と熾烈な戦いを繰り広げた。戦争の野蛮さと残酷さはミハイル・ショーロホフ「静かなドン」などの文学作品の中で如実に描写された。ロシア共産党は一時コルチャーク、デニーキンなど元白軍が指導する軍隊から窮地に追いやられ、誕生したばかりの政権であるにもかかわらず、全国民の反抗を受けた。それはすべて、共産党邪教があまりに邪悪で、人々に憎悪の念を抱かせたからである。
中国共産党は中国でも同じような境遇に立たされた。「馬日事変」、「四一二虐殺」[8]から、ソビエト政権地区で五回もの「撲滅」に遭い、その後二万五千里にも及ぶ長征を余儀なくされ、逃げ回っていた。中国共産党は長い間消滅される危機に直面していた。
共産党は手段を選ばずに旧世界をぶち壊し、この世を支配しようとしてきたが、その前に自身が如何にして消滅されることなく、存続していくのかをまず解決しなければならないと気づいた。そのため、共産党は終始消滅される危惧を背負っている。存続していくということは共産党邪教にとって、何よりも重要なことであり、全ての全てである。今日になって、国際共産党陣営が完全に解体し、中国共産党の存続の危機はますます深刻な問題になり、「党が滅びる」という論調は1989年以降ますます現実的なものとなってきたのである。
五 共産党邪教が存続のために講じた手段、即ち残酷な闘争
共産党は一貫して、党に対する党員の絶対的な忠誠、組織性と厳しい規律を強調してきた。中国共産党に入党した際、党員は次のように宣誓しなければならない。
「私は中国共産党に入党することを志願する。党の綱領を擁護し、党の規程を守り、党員としての義務を果たし、党の決定に従う。党の規律を頑として守り、党の機密を漏えいしない。党に対して忠誠であり、一生懸命働き、共産主義のために生涯奮闘し、党と人民のために全てを捧げる用意はいつでもある。永遠に党を裏切らない」(中国共産党規程第一章第六条)
共産党はこの献身的に入信する精神を「党性」と呼んでいる。共産党員として、いつでも個人の理念と原則を放棄できるようにし、党と領袖の意思に対し絶対的に服従することが求められている。善になるようにと言われたら善になり、悪事を働くようにと言われたら悪事を働き、このようにしなければ党員の基準に達していないことになり、党性が確固としたものではないと思われる。
毛沢東は「マルクスの哲学はほかでもなく闘争の哲学である」と言ったことがある。党性の育成と維持は周期的に起こる党内の闘争に頼っている。絶えず党の内部と外部に対して残酷な闘争を起こすことによって、党に対して異議を持つ人を消滅し、人々に恐怖感を覚えさせながら、党の組織を絶えず粛清し、家訓と教義を正し、党員の「党性」感覚を養っている。それにより、党としての戦闘力を強めている。これは共産党が自らの存続を確保するための有効な手段である。
毛沢東は中国共産党の指導者の中で党内闘争という手段を最も巧みに駆使した大師である。その闘争の熾烈さ、手段の下劣さは実は“ソビエト根拠地”で1930年代初期、すでに兆候を表し始めていた。
1930年、毛沢東は江西省“ソビエト根拠地”で大規模な革命恐怖を引き起こした。つまり、AB団粛清運動であった。数千名の紅軍と根拠地にいる党員と青年団団員、一般庶民が無念にも殺された。当時、江西ソビエト根拠地で毛沢東の権威が確立したばかりだったが、李文林を始めとする江西省西南地域の紅軍と党組織の反対に遭った。毛沢東は自らの権威と意思に抵抗する如何なる組織的な反対勢力をも容認することができず、極端な手段で自分と異なる考えを持っていると疑われた党内の同士を弾圧した。毛沢東は「AB団を粛清する」環境を整えるために、わざと自分の直属部隊を対象にまず粛清した。11月下旬から12月中旬にかけて、紅一軍[9]で「迅速粛清」を行った。各師、団、営、連、排で粛清組織を作り、地主や裕福階級出身の党員と不満を持つ人々を処刑した。一ヶ月も経たないうちに、四万人あまりの紅軍の中から四千四百名以上の「AB団」メンバーが探し出され、中に「数十名の団長」(「AB団」の総団長)がおり、全部殺害された。
続いて、毛沢東は“ソビエト根拠地”にいる自身に対して異議を持つ人々に対する粛清を始めた。1930年12月紅一軍政治部事務局長兼粛清委員会主席の李韶九を江西省ソビエト政府所在地富田に派遣し、江西省行動委員会と紅二十軍の八名の上層幹部段良弼、李白芳などを逮捕し、様々な拷問を施した。殴られた人は「身体に傷だらけで、指が折れてしまい、体中火傷でただれ、動くこともできない」。当時の資料によると、被害者の「悲鳴が響き渡り、途絶えることはない。残酷な拷問方法が使い尽くされた」という。12月8日、李白芳、馬銘、周冕の妻らは拘禁中の夫に面会に来た時、「AB団」のメンバーとして捕えられ、拷問された。「地雷公で手を叩き、お香で身体を焼き、火で局部を焼き、ナイフで乳房を切り取る」。残酷な拷問に遭い、段良弼は李文林、金万邦、劉敵、周冕、馬銘が「AB団の幹部」であると証言し、更に紅軍学校の中に「たくさんのAB団メンバーがいる」と言った。12月7日から12日夜まで、わずか五日間の間、李韶九らは富田から「AB団」百二十名あまりのメンバーと幹部数十名を探し出し、四十数名の人を処刑した。彼らの残虐極まりない行動は最終的に、1930年12月12日、“ソビエト根拠地”を驚かせた「富田事変」を引き起こした。(高華『毛沢東在江西蘇区「粛AB団」的歴史考察』を参照)
毛沢東は闘争学を頼りにして、更にそれを実践することによって、“ソビエト根拠地”時代から延安の時代まで、徐々に党内での絶対的な地位を手に入れた。建国以来、この党内闘争が引き続き行われていた。例えば、毛沢東は廬山会議で、突然彭徳懐を打倒し、会議に出席した中央の指導者一人一人は全部賛成の態度を表明しなければならなかった。わずか数名の人は自分の意見を述べたり保留したりしたが、全部「党に反対する彭徳懐グループ」と見なされ、文化大革命のとき、皆迫害され、反抗する余地もなかった。誰も毛沢東に対して物を申す勇気はなかった。共産党は一貫して党に対する忠誠を強調し、組織性と厳しい規律や、教主という領袖に対する絶対的な服従を要求してきた。この党性はほかでもなく、後を絶たない政治闘争から身についたものである
中国共産党の指導者だった李立三は文化大革命のとき批判され、六十八歳の高齢にもかかわらず、毎月七度以上も民衆の前で批判されていた。夫人の李沙は「ソ連からのスパイ」としてすでに牢獄に入れられ、消息が絶えてしまった。彼はどうしようもない絶望の中で、大量の睡眠薬を飲んで自殺した。李立三は死ぬ前に毛沢東宛に遺書を残し、共産党邪教徒は、死を目前にしながらも「党性」を放棄できないことをリアルに反映した。
主席:
今私は自殺し、党を裏切ってしまいました。如何なる方法も私の無実を証明することができません。ただ、私と家族全員は売国のことをしたことはありません。このことだけは、中央が調査し正しい結論を下してほしいのです。
李立三 1967年6月22日
毛沢東の闘争の哲学は最終的に、中国を未曾有の大劫難に導いたが、このように「七、八年毎に起きる」政治運動と党内闘争は確かに共産党の存続を確保する上で大きな役割を果たした。毎回の政治運動の中で、五パーセントの人を懲らしめることによって、九十五パーセントの人々がおとなしく党と同じ路線を取るようにし、それによって党組織の求心力と戦闘力を保ってきた。同時に、良知を放棄したくない「党に対して確固たる心を持っていない」人を淘汰し、対抗してくる人々に打撃を加える。このようなやり方で、共産党内の最も闘争精神が旺盛な、手段を選ばない人だけが権力をコントロールすることができるのである。つまり、共産党邪教の教主は闘争経験が豊富で、強い党性をもつ人の地位を確保してきた。この残酷な闘争はそれを経験した人に「血の教訓」を与え、彼らを暴力的に洗脳した。また、闘争の中で共産党は絶えず充電され、闘争の精神がますます強められ、党が消滅されないことを保障し、闘争を放棄する穏やかな団体にならないように守ってきた。
共産党が要求しているこの党性はほかでもなく、共産党の邪教的な本質から変化してきたものである。共産党は自らの目的を実現させるために、全ての伝統と原則から決裂し、手段を選ばずに自らを妨害している人々を敵に回した。従って、共産党は党員を情も義も信用もない、党に服従している道具に仕立て上げなければならない。共産党のこうした本質は、自らの人類社会と伝統に対する敵視からきたもので、自身に対する現実離れした過大評価、およびそこから派生した極端な利己心と他人の生命への軽視からきたものである。共産党は自分たちのいわゆる理想を実現させるために、暴力で全世界をぶち壊すことも辞さず、異議を持つ全ての人を消滅しようとしている。このような邪教は、良知ある全ての人に反対されるに違いないため、共産党は人間の良知と善良を何としても消滅しようとしているのである。このようにしてはじめて、人々に共産党の邪説を信じ込ませることができるようになる。したがって、共産党は自らの存続を確保するために、まず人間の良知と善良および道徳水準を破壊し、人間を自分の言いなりに従う奴隷と道具に仕立てようとした。共産党の論理から見れば、党の生命と党の利益はこの上ないもので、ひいては全ての党員の利益を合わせたものよりも大事なものである。従って、党員は常に、党のためにいつでも死んでもいいという用意がないといけない。
中国共産党の歴史から見れば、陳独秀、瞿秋白のような伝統的な知識人、胡耀邦、趙紫陽のような国民の利益を重んじる人、朱熔基のような、民のために働くと志した幹部、彼らは党に対していくら貢献しても、個人の野心を持っていなくても、最終的に粛清されたり左遷されたりし、党の利益と規律に制約されてしまう。長年の闘争の中で培った党性はすでに骨まで染み込んでおり、肝心な時になると、彼らは往々にして妥協してしまう。彼らの潜在意識の中で、党の存続は最高の利益であり、自らが犠牲になっても、党内に邪悪勢力が横行しているのを見ても、良知と善なる念を貫くがゆえに党の存続に影響してしまうようなことをしてはならないと思っている。これはほかでもなく、共産党の闘争によってもたらされた結果であり、良い人も共産党の道具になり、党性をもって最大限に人間の良知を制限しひいては消滅してしまう。中国共産党は十数回にも及ぶ「路線闘争」を引き起こし、十数名の党の指導者または指導者として内定された人を打倒し、党の指導者は良い最期を迎えた人は一人もいない。毛沢東は四十三年間中国を統治してきたが、亡くなって間もない頃、彼の妻と甥が投獄され、これは毛沢東思想が勝ち取った偉大な勝利であると全党は歓喜していた。これは喜劇なのであろうか、それとも茶番劇なのだろうか?
共産党が政権を奪取した後、党内から党外まで、政治運動は後を絶たなかった。毛沢東時代はもちろん、「改革開放」以降もこの状況は変わらなかった。80年代、思想がわずかに自由になったが、共産党は「資産階級自由化反対運動」を起こし、「四つの基本原則」[10]を提唱した。なぜならば、共産党は絶対的な指導権を握らなければならないからである。1989年、学生らは平和的に民主化を求めていたが、「六四天安門事件」に遭遇した。なぜならば、共産党は民主的な考えを容認しないからである。90年代に「真・善・忍」を信じる法輪功学習者がたくさん現れたが、共産党は1999年から法輪功学習者を大量に虐殺してきた。なぜならば、共産等は人間性と善なる念を許さない。そのため、暴力をもって人々の心にある良知を全力で壊そうとしているのである。このようにしてはじめて、共産党は自分の権力に安心感を覚えるのである。新しい世紀に入って、インターネットは世界を繋げたが、中国共産党だけが多額な資金を投入し、ネットを封鎖し、ネットで発言し自由を求める人を逮捕・拘束している。なぜならば、共産党は国民が自由に関する情報を手に入れるのをとても恐れているからである。
六 共産党邪教の悪変
共産党邪教は本質から天理を否定し、人間性をぶち壊し、その本性は利己的で、傲慢不遜、そして歯止めのきかない、残忍な行動が身上だ。実際、常に国と民に危害をもたらしているにもかかわらず、永遠に自らの罪を認めようとせず、国民にも自身の本質を見せることも決してしない。また、共産党は頻繁にスローガンと看板を変えることをまったく気にしていない。この全ては共産党から見れば手段に過ぎず、共産党の存続という大きな目標に有利であれば、共産党は何でもやりかねない。共産党にとって、道義や原則などはまったくないのだ。
この制度化、社会化された邪教は今後の行方として完全な堕落に向かうしかない。権力が少数の人に高度に集中しており、世論と各種の監督部門に対する制約によって、如何なる人も組織も共産党が堕落と腐敗に向かっていくことを止めることができない。
今日の中国共産党はすでに世界最大の「汚職党」「腐敗党」になってしまった。中国政府の統計によると、全中国に二千万あまりの党の幹部と政府幹部がおり、二十数年以来、すでに八百万にも上る幹部は汚職で、党の規律と政府の規律および法律に基づいて、処罰された。この上、まだ明るみに出ていない汚職幹部の数を合わせると、実はすでに三分の二の幹部が汚職していることになる。今知られているのはまだわずか一部だけに過ぎない。
汚職・腐敗し、自分のために金をもうけ、うまい汁を吸うというこの物質的な利益は中国共産党を一丸となった向心力にしているのである。共産党がなければ、彼らに腐敗の機会もなく、ある日共産党が倒れたら、彼らが失うのは権力と官職だけではなく、処罰されてしまう恐れもあると、腐敗した幹部らは分かっている。黒幕を暴露した小説『天怒』の中で、著者は市政府事務局副局長 相寿のせりふを通じて、共産党の天機を漏らした。つまり「腐敗は私たちの政権を更に固めた」ということである。
「腐敗に反対すれば、党が滅びてしまい、腐敗に反対しなければ、国が滅びてしまう」ということを、国民ははっきりと分かっている。しかし、共産党は党が滅びる危険を冒してまで腐敗に反対しないのである。共産党はただ、国民に腐敗に反対していることを見せるために、何人かの腐敗幹部を殺すだけである。何人かの腐敗幹部の命で、共産党の向こう数年の延命を得ようとしている。共産党邪教が今日になって、唯一大事に思っているのはいかに権力を保ち、党が滅びることを避けるかのことだけである。
今日の中国では、倫理と道徳は深刻に破壊され、偽商品は氾濫し、売春婦はいたるところを徘徊し、麻薬もまた出回り、役人と暴力団が結託し、暴力団は社会に横行している。ギャンブル、収賄、汚職腐敗など社会に害を与える現象ははびこっている。しかし、共産党はこれらの行為を放任しており、しかも多くの高官は、その見返りとして賄賂を徴収している黒幕である。マフィアを研究している南京大学の学者蔡少卿の推算によると、中国のマフィアのメンバーは少なくとも百万人くらいいるという。一つの暴力団を撲滅する度に、背後にある政府要員、裁判官、警察官など共産党の腐敗幹部が暴露される。
中国共産党は人々が良知と善なる念を持つことを恐れているために、国民に信仰の自由を与えようとしない。信仰を求める良い人、例えば真善忍を求める法輪功学習者、イエスと神様を信じている地下教会のメンバーに対して、中国共産党は極まることなく、その残酷な迫害手段を駆使している。民主政治により一党独裁が滅亡してしまうことを恐れているため、共産党は国民に政治の自由を与える勇気はない。独立した考えを持つ人々、ひいては民間で人権を守る人々はたびたび投獄される。しかし、中国共産党は中国人に別の自由を与えた。つまり、政治に関心はなく、党の指導に反対しなければ、自分の如何なる欲望をも放縦してよい。ひいては邪悪で天理に反することさえやってもよい。これによって、中国共産党の堕落が加速され、中国社会の道徳は日増しに滑落してしまった。
「天国への道を塞ぎ、地獄への扉を開いた」、これは中国共産党が今日社会を堕落させたという情況を見事に表現した言葉である。
七 共産党邪教による統治への反省
(一) 共産党とは何か
これは非常に簡単なようにみえる質問であるが、すぐには答えられない質問でもある。共産党は「公」という衣を着ており、政党として現れてきたため、確かに多くの人を惑わしている。しかし、共産党は普通の政党ではなく、邪霊として人々に取り憑き、害を与える邪教である。共産党は生きている生命であり、党の組織はこの世での邪教の表象であり、邪教の身体である。実際共産党を司っているのは、最初から注ぎ込まれた邪な霊である。この邪な霊は党に邪教的な本質をもたらした。
共産党の指導者らは教主の身分を持っているが、実は彼らは邪な霊と党の代弁者と執事であるに過ぎない。彼らの意思と目的は党と一致し、しかも党にとって利用価値がある場合、指導者として選ばれる。しかし、党のニーズに応えられなくなったとき、すぐに非情にも打倒されてしまう。党の闘争メカニズムによって、最も狡猾かつ邪悪で、しかも残酷な人だけが共産党教主の座に着くことができる。中国共産党の歴史上の数十名の指導者たちが皆悲惨な末路を遂げたことはまさにこのことを説明している。党の最高指導者が選択できる道は実は非常に限られており、ゴルバチョフのように共産党の呪縛を破ることにより、その名が歴史に長く残されるのか、または中国共産党の総書記のように党に飲み込まれてしまうのか、この二つしかない。
一般の民衆は共産党にこき使われ、搾取されている。共産党がコントロールしている範囲内で、人々は共産党の権利を脅かさなかったが、共産党の指導と共産党を支える(養う)義務を押し付けられた。また、彼らは常に党の暴力に脅迫され、邪教的な洗脳を受けざるを得ない。共産党は中国で、全国民に邪教を信じることと邪教を養うことを強要しており、これはこの世で類を見ないもので、全世界でも特殊な存在である。
党員は共産党の身体を丈夫にする人々であり、彼らの中に善良な人も少なくない。ひいては社会に傑出した功績を残した人もいる。こういう人であればあるほど、中国共産党は彼らを党員にしようとする。彼らの名誉と能力を利用し、党の為に働いてほしい。更に多くの人は出世し、人の上に立ち、自らの利益を得ようとするあまり、積極的に共産党に入ろうとする。彼らは共産党を助長し、自由自在に党内で活躍している。共産党が統治している国では、党員にならなければ個人の成長はほとんど不可能であるため、生涯に何かの功績を遂げようとする人は入党する。また、住宅を配給してもらうため、ひいては「向上」を求めるために、入党した人もいる。したがって、中国共産党の数千万人の党員の中に、良い人も悪い人も混じっている。しかし、入党当時の動機がどういうものであるかに関わらず、自分の意思で入党したのかに関係なく、共産党の旗の下で宣誓したならば、自分の意思で党に自らを捧げることとして見なされる。毎週の政治学習と組織生活は洗脳の過程であり、これによって、多くの人は自我の意志を失う人となり、共産党の邪な霊に憑かれ、制御されてしまう。このような人は党内で、人体の細胞のように、身体の元気のために絶えず働かなければならない。更に気の毒なことに、「党性」はこれ以降頭にきつく縛られ、それを取ろうと思っても、なかなか取れない。一旦、人間性が現れたら、粛清と迫害の対象になりうるからである。共産党が党の離脱を認めていないため、このとき、党から離れようと思ってもできず、裏切り者として扱われてしまう。このため、人々は共産党員の二重人格の存在に度々気づいてしまう。つまり、政治の場合の党員としての「党性」と日常の場合の「人間性」の一面ということである。
党の幹部は、党員の中で権力を握る人の集まりである。彼らは、個々の時点や機会において、個人の善悪の判断を下すことはできるが、全体としては、党の意志に従って動くしかない。これはつまり、いわゆる「全党が中央に服従する」ということである。彼らは中央と国民との真ん中に立ち、共産党の中堅であるが、実は党の道具としての役割を果たしているだけである。彼らはいつもの政治運動の中で、利用されたり、批判されたりしている。その基準は、教主を正しく選んだのか、教主に対して忠誠であるかどうかのことである。
(二)人々はなぜ目覚めないのか
中国共産党は、中国を五十年余り統治しており、様々な悪事を働き、この上なく邪悪であるが、なぜ人々はその邪悪的な本質を認識できないのであろうか?中国人が愚かなのだろうか?そうではない。中国人は世界で智慧ある民族の一つであり、五千年の悠久の文化と伝統を有している。しかし、中国人は今でも共産党に統治され、不満を漏らすこともできない。その理由は、共産党の邪霊によってマインド-コントロールされているからだ。
もし、仮に中国の国民に言論の自由があり、共産党の是非を公に議論することが許されるとすれば、賢明な中国人はとっくに共産党の邪悪な本質を見抜き、共産党邪教の制御から抜け出していたかもしれない。しかし、不幸なことに、中国共産党が統治しているこの半世紀もの間、中国の国民は言論と思想の自由を失っている。1957年、知識人の中から右翼を探し出した目的は言論と思想を制限するためである。このような自由のない社会で、文化大革命の時マルクス・レーニンの原著を誠心誠意に研究してきた若者まで、「党に反対する集団」として弾圧され、共産党の是非を議論するなどなおさら許されないことであった。
共産党は邪教である。多くの中国人はこのことを考える勇気すらなかったと思う。しかし、中国で生活したことのある人なら、自分自身の経験と親戚友人の経験からこの論を支持する論拠を見つけるだろう。
人々は、思想の自由を禁錮されるだけではなく、共産党の説教と党の文化まで注ぎ込まれている。人々は党の功徳を讃える声しか聞こえず、頭の中に共産党以外のものは何もない。例を挙げて説明しよう。「天安門事件」の時、天安門広場付近で発砲があった時、多くの人は本能から身を隠したが、少し落ち着きを取り戻すと、皆それぞれ身を隠した場所から、「インターナショナル」を歌って表に出た。これらの中国人は確かに、勇気があり、純真で尊敬に値する人であるが、なぜ共産党の虐殺に遭っているにもかかわらず、共産党の「インターナショナル」を熱唱したのであろうか。理由は非常に簡単である。つまり、党の文化で教育されてきたので、人々は共産主義以外、何も知らないのである。「インターナショナル」と党の功徳を讃える歌以外、歌える歌はない。
(三)解決策はどこにある?
中共はもはや救いようがないほど堕落してしまったが、悲しいことに、この邪教は消滅の瀬戸際にあって、中華民族を道連れにしようと考えている。
中共は力が衰え、人々の思想面での支配はだんだん弱くなり、また、現代通信手段、特にインターネットの進歩で情報コントロール・言論封鎖がますます難しくなっている。民衆が拡大しつつある官僚の汚職による被害に対して認識し始め、中共に対する期待も薄くなり、自らの権利を求めるようになっている中、法輪功に対する迫害で自分たちの思想面での支配を強化できないばかりか、中共自身の残虐さが世に知られ、自らの首を絞めることとなった。このような中、中共の本質を考え直すことが可能となり、中華民族が中共邪霊のコントロールから脱出するきっかけを掴んだのである。
50年にわたり中共政権により支配された中国人に必要なのは暴力による革命ではなく、魂の救済である。これは中国人が自らを救う過程であり、その第一歩としては共産党の邪悪な本質の認識から始まるのである。
いつか中国でも行政系統に独立性を与え、寄生虫の共産党を切り離すであろうが、それは遠い将来ではないだろう。共産党による一党統治を取り締まれば政府機関は間違いなく効率よく働くし、実際こういった「党と行政との切り離し」の考え方は80年代に共産党内部改革派に提案され実践もされてきたのである。しかし、共産党の絶対的権力を根本から否定せず、それ自身の内部改良だけでは問題の解決にはならないのである。
共産党が生存するためには共産党理論が不可欠であり、行政機関に寄生する共産党を切り離すよりも、思想面での憑き物を追い出す方が遥かに難しいだろうが、それが共産党を退治する唯一の方法である。本質の邪悪さとそれの危険性を認識させた上で、思想の片隅にも生存空間を与えないようにする。共産党は一種の思想形態に属するので、民衆へのマインドコントロールを最も重要としている。中国人自ら行わなければならないが、思想面から共産党の存在、その理論を否定し、自分の考え方への影響をきれいにしておけば、思想形態としての共産党が滅びるだろう。この場合、共産党憑き物のない正常な社会へ転じるためには一人一人が「返本帰真」、すなわち善良なる本性に戻る事が必要である。
共産党支配の国々、中国、北朝鮮、ベトナム、キューバのほとんどは権力集中、貧困と迫害を伴う。総数はますます少なくなるという末日が見えている。
邪悪な共産党を追い払ったら、知恵と輝かしい歴史を有する中国には大いなる希望が生まれるだろう。
結び
共産党はもはや共産主義を信じておらず、その魂は死んだが、その残滓がわずかに残っているという有様である。中共は共産党の皮を受け継ぎ、傲慢やうぬぼれ、極端な利己主義、歯止めのきかない放縦さという邪教的本性を十分に表わしている。中共という邪教は、天理を否定し人間性を抹殺するという本質を引き継いでおり、何ら変わっていない。
今日、中共による統治は、共産党が長年累積した闘争手段, 厳密な組職制度、‘党による憑き物’の統治形式、及び国教化した邪教的宣伝により維持されている。今日の中共は、本文にまとめられた共産党の 6つの邪教的特徴をすべて備えており、善良な事は全くせず、ひたすら悪事を重ねている。
滅亡の末路を進むこの中共邪教はますます腐敗、堕落する一方である。最も恐ろしいのは、終焉に気づいたがゆえに、この邪教が全力で中国社会を腐敗と堕落の深淵へ道連れにしようとしていることである。
中国人は自らを救うため、反省しなければならず、共産党支配から脱出しなければならない。