【薇羽は世間を看る(2020年12月6日)】に以下の記事が掲載されていた。
中国共産党政権は旧ソ連によって育まれ、長い間旧ソ連に従順な傀儡政権だった。旧ソ連は、中国共産党に独裁と暴力的な権力掌握の理念、戦略、体制、技術などを輸出しただけでなく、さらには金銭、武器、アドバイザー、情報そして基地までも提供した。そして中国共産党は内戦、恐怖、嘘などの違法手段を使って、中国の政権を奪取した。
中国共産党の殺人史は、政権奪取後に始まったのではないという。その歴史は血と嘘で記された歴史だ。その流血の裏にある事実は、残酷非道である一方、ほとんど世間に知られていない。中国人の6千万ないし8千万もの罪のない人々の命が犠牲となり、さらに多くの家庭が迫害された。毛沢東が中国人民に与えた害は、ヒトラーやスターリンが世界の人々にしたものに匹敵するという。
暴政と独裁 毛沢東の知られざる事実
中国共産党の前中央政治局委員および全国人民代表大会常務委員会委員長(国会議長に相当)などを務めた中共八大元老の一人である「万里」氏は2009年、93歳の時の彼の「中国共産党の政権の違法性について」の私的な会話がネット上で広まり話題となった。
“私は「歴史の声-半世紀前の約束」という、1990年代に出版後すぐに禁止された本を秘書に見つけさせた。その時代の歴史を研究する専門家たちにもいろいろと尋ねた。彼らによると、この本は1930年代~1940年代にかけて中国共産党が公表した主張、コメント、声明などを集めたもので、すべて本物である。中国共産党はかつて全国民に対し、民主と自由の独立国家づくりを約束していた。これらの約束は仁愛や正義に溢れ、衆人や革命のためならば、献身をも惜しまない無数の人々を魅了した”
2015年、万里氏はその死の直前に、「毛沢東の再評価」を要求した。これは非常に珍しいことだ。イギリス在住の女性著作家の張戎(ユン・チアン)氏は大量の資料に基づいて書かれた毛沢東に関する真実の本「毛沢東:知られざる事実」で、彼女は毛沢東を次のように評価している。
“毛沢東はヒトラーやスターリンと同じくらい邪悪であり、彼が中国人に与えた多くの害はヒトラーやスターリンに匹敵する。彼は中国人民の多大なる犠牲と悲劇を引き起した”
一度は毛沢東の後継者に指名されたが、毛沢東暗殺を計画して失敗した林彪の息子である林立果氏による毛沢東の評価を中国共産党は未だに公開する勇気がない。
彼によると、
“毛沢東は中国史上最大の暴君である。彼らの革命の標的は実際には中国人民であり、真っ先に矛先を向けられたのが、軍隊や彼らと反対意見を持つ人たちである。彼らの社会主義は本質的に社会ファシズムであり、彼らは国家を肉挽き器のような暴力装置にした”
林立果氏の見解では、
”毛沢東は幹部同士だけでなく、民衆同士、軍隊同士、党員同士を扇動して互いに戦わせた。彼こそ中国における武力闘争の最大の提唱者であった。彼らはわざと仲たがいや分裂を生み出させたのちに、分割統治を行い、自分たちの支配的な立場を固めた。彼らは全員を同時に攻撃することは自滅的であることを知っているので、今日はこちらを籠絡してあちらと戦わせ、明日にはあちらを籠絡してこちらと戦わせた。常にあらゆる時期に一つの力を取り込んで別の力と戦わせている。今日甘い言葉で唆した人たちを明日には冤罪を背負わせて死地に追い込んでいる。 例え今日はお客様であっても、明日には捕虜とされる“
「数十年の歴史の中、毛沢東に抜擢された人で、最終的に政治的に死刑を宣告されなかった人は一人もおらず、彼と永遠に協力できる政治勢力もなかった。かつて彼の秘書を務めた人の運命は自殺か投獄のどちらかだという。また、毛沢東の数少ない親しい戦友や側近らもすべて彼自身の手で刑務所に送られた。ひいては彼の息子(毛岸青)までもが彼のせいで発狂した」
林立果氏によると、「モ沢東は懐疑的なサディストで、その哲学とは『やる以上は徹底的にやる。毒を食らわば皿まで』というもので、つまり、誰かを懲らしめる時には徹底的に死地へでも追いやらないと気が済まず、いったん恨みを買ったならば、とことん買い尽くし、そして悪いことはすべて他人のせいにする。 つまり、彼の手によって打倒された人たちは、実は皆彼の「スケープゴート」だったのだ“
AB団粛清事件:手段は残虐で卑劣
毛沢東による自国民の大量殺戮は政権樹立後に始まったわけではない。早くも1930年末には「打倒毛沢東」と叫んだ「紅二十軍」はすぐさま消され、10万人の兵士が巻き添えになり殺された。当時、蒋介石が率いる北伐軍は江西省南昌を占領したが、国民党の省、市の党本部が共産党に完全に支配されていることを知り、党内の指導権を奪取するための右派組織「AB団」を作った。これはかつて存在していた反共組織で「アンチ・ボルシェビキ(Anti-Bolshevik)」の頭文字を取ってつけられた名である。
しかし、1927年4月上旬、「AB団」は左派勢力に完敗し、その存続期間はわずか3カ月だった。そして、1930年に毛沢東は江西省共産党占領地で「AB団粛清運動」を開始した。当時、彼は紅軍第一方面軍の総政治委員兼総前線委書記であり、占領地の最大の武装軍隊を率いていたが、権力の分配において、江西地元の党委員会や紅軍と対立していた。地区の独占を企む毛沢東は、恐怖と独裁手段を使用して、党内のライバルを排除することにした。その粛清の手段は極めて残酷なものだった。
1994年河南人民出版によって出版された「AB団と富田事変始末」という本の中で、その悲劇の全貌が細部まで記されていた。
それによると、拷問を受けた人たちは、体に無傷な皮膚が一つもないほど痛めつけられ、指は折られ、体中が焼け焦がされ、叫び声が天をも震撼させるほどだったという。120種類以上もあったその拷問手段の中には、指と爪の隙間から竹串を打ち込み激痛を与える拷問や線香のような弱い火で体をじっくり焼き続け苦痛の中で死なせる拷問、また下半身を焼いたり、小刀で乳房を切り取ったり、手のひらに釘を打ち込んだりなどがあり、その多くが「オリジナルで史上初」だったという。これら想像を絶する拷問の数々は、のちに中国共産党がその数十年に及ぶ違法統治の間に、無実の中国民衆に対しても使用されてきた。
中国共産党史の専門家によると、“AB団に対する粛清の程度、例えば人々を列に並ばせて鏡の中の自分を覗かせて、もし赤面したら不安の証拠とし、外に引きずり出されて殺された。また2人きりで話しただけでも、AB団と疑われたり、さらにはAB団を拷問する人も残忍さが足りなければAB団とのつながりを疑われた”という。
そうして誰もが危険を感じて恐れ、皆口をつぐんで押し黙るしかなかった。拷問手段があまりにもむごく残虐なため、ほとんどの人は耐えられずにでたらめな自供をするしかなかった。AB団とは何の関係もない人の名前を口にし、粛清チームはそれらの人たちを捕まえては、また同じように自供を強要していた。こうして芋づる式にありもしない「AB団員」が摘発されていき、雪だるま式に増え、悪循環に陥った結果、最終的に多くの地域の中国共産党機関の人員の8~9割がそのいわゆる「AB団員」となった。残酷な拷問ののちに自供させられた者は全員ただちに処刑された。
銃弾を節約するための処刑方法は、主に槍、棍棒、刀による斬殺だった。“鮮血は殺人者の手とその手に握られた刀の間にくっついて取れなかったと言われている。冷血で残忍、国を盗み、権力を奪うために無数の人々を殺した。江西省だけでなく、革命根拠地の福建省西部地区でも血生臭い殺戮の嵐に包まれていた。1930年7月、そこの共産党員も江西省と同様に、毛沢東が北上する隙を狙って、彼らを支配していた人たちを権力の座から引きずり下ろした。しかし、その後、何千何万もの人々が殺された。
1980年代に公式に冤罪を晴らした、名前が分かっている者だけでも、その数は6352人だった。中国共産党の蕭克将軍の回顧録によると、“中共の粛清で10万人の紅軍が虐殺され、3年間で7万人以上のAB団、2万人以上の再編派、そして社会民主党の6200人以上が処刑された”と記されていた。
名前もわからない人たちを含むと毛沢東はいったいどれほど多くの自国民を殺したのか、知る由もない。当時、江西省共産党員は中央に対し、「毛沢東は悪だくみをして江西党幹部を虐殺し、江西党組織を破壊した。毛沢東は常に中央に反対していた」と報告した。しかし、旧ソ連から帰国した周恩来は、モスクワの指示に従い、毛沢東を全面的に支援した。なぜなら、スターリン主義の悪魔世界では、人々を懲らしめる人は常に優位に立つ必要があり、モスクワが望んだのは最も冷酷な人物だった。このような人物しか彼らが望む物事は成し遂げられないからだ。江西の共産党員も党に忠実だったが、中央は彼らに対して、「毛沢東の命令を抵抗なく実行するように」と命じ、「さもなければ消滅させる」と彼らを犠牲にした。毛沢東の冷酷さと残忍さを見たモスクワは、のちに毛沢東を「中国共産党中央委員会主席」に任命し、中国共産党による政権奪取後の初の指導者となるための基礎を築いた。
司祭が目撃した残虐行為の数々 子供たちの目の前での殺戮
フーバー元米大統領はかつて、レイモンド・J・イェガ―(Raymond J. de Jaegher 1905-1980)神父の著書「内なる敵」を世界に推薦したことがある。1927年に中国国籍を取得したレイモンド神父は「私は中国を愛するために生まれ、中国を愛するために死ぬ」と言ったことがある。
日中戦争中、彼は戦場に派遣グループを組織し、負傷した中国兵士や民間人を救うために活動していた。彼の著書に“八路軍は「晥南事変」の前に国民党軍の3つの軍隊、6万人の兵士を急襲したのに50マイル先の日本軍を攻撃しなかった”との記述がある。
神父はまた中国共産党がどのようにして、残虐行為を利用して人々を恐怖に陥れたかについても語った。
“中国共産党は村全員、小さな子供たちは先生に率いられるようにして村の広場に集合させた。目的は13人の愛国青年の処刑を見せることだ。あらぬ罪状を読んだ後、中国共産党は教師に命令して、怯えて顔色が白くなった子供たちに愛国的な歌を歌わせた。そして曲中に登場したのはダンサーではなく、鋼刀を手に持った処刑人だった”
“処刑人は凶暴な顔つきをしたガタイのいい若い共産党兵だ。その人は最初の犠牲者の背後に近づき、両手で高く大刀を振り上げ、稲妻のごとく素早く斬りつけた。鋭い音と共に最初の頭が音を立てて地面に落とされた後も、コロコロと転がっていた。鮮紅色の血が滝のように噴き出し、子供たちのヒステリックな歌声はまとまりのない悲鳴に変わった。教師たちは手を叩いて叫び声に秩序をもたらそうとした。私は雑然たる中で再び鐘の音を聞いた”
“処刑人は連続で13回も大刀を振り続け、13人の首を切り落とした。その後、中国共産党の兵士たちが一斉に死者の腹を裂き、心臓を取り出した。それを食べるために持ち帰るためだ。そしてこれらのすべての残虐行為は子供たちの目の前で行われた。子供たちは恐怖のあまり怯えて顔が灰白色になった。また何人かは嘔吐していた。教師たちは子供たちを叱りながら、編隊を組み学校へ連れ戻した“
”それ以来、私はしばしば子供たちが強制的に殺人を見せられているのを見た。子供たちはこの血生臭いシーンに慣れるまで見せ続けられた。子供たちはだんだんと麻痺し何も感じなくなり、ひいてはそれからスリル満点の刺激的な快感を得られるようになっていった“
”中国共産党はついには人を殺すことはもはや刺激を感じなくなっていた。彼らは更なる新たなスリルと快感を求めて、あらゆる種類の拷問を発明し始めた。例えば、囚人に水を与えずに喉の渇きで死ぬまで大量の塩を飲ませ続けたり、あるいは囚人の服を全部脱がせて割れたガラスの上を転がらせたり、さらには冬の凍った川に穴を開けて囚人を穴の中に放り込み凍死するか溺れ死ぬまでいたぶり続けた“
”山西のある共産党員は恐ろしい刑罰を発明した。ある日、彼は町をぶらぶらして、飯屋の前で立ち止まった。彼はずっと炊事場の大きな釜を眺めていた。まもなく、彼はいくつかの大釜を注文し、すぐさま何人かの反共産の人たちを捕まえてきては彼らを審判した。死刑を宣告された3人の囚人はすぐに全裸にされ、沸騰したお湯の鍋の中に放り込まれ、生きたまま茹でられた“
”また、平山では息子の目の前でその父親が生きたまま皮を剝がされて死ぬのも見た。その息子は共産党から強制的にその凄惨な処刑の一部始終や泣き叫ぶ声の中で父親が死ぬのを見せつけられた。共産党はその父親の身体に酸などの液体をかけ、生きたまま皮膚を剥がした。最初は背中から始まり、次に肩と全身の皮が剝がされた。残ったのは頭皮1枚だけだった。その父親は全身の皮が剥がされた後、数分で死んだ“
嘘と暴力がむご過ぎる殺人史
中国共産党の歴史は、この世のものと思えないほど残忍な殺戮の歴史であり、血と嘘で記された歴史だ。中国共産党は1930年代にAB団と呼ばれる兵士10万人を殺戮し、長春包囲戦では20万人の民間人を餓死させた。そして1950年代の初頭の「土地改革」「反革命鎮圧」「三反五反運動」の間にも数えきれないほど多くの中国人が処刑または迫害され殺された。
米コロンビア大学政治学教授および中国政治・外交政策の専門家でもあるアンドリュー J. ネイサン(Andrew J. Nathan)氏の著書「中国の民主(Chinese Democracy)」の中で、
“1950年代初頭、中国では2千万の人々が「地主、富農、反革命、悪者」という烙印を押された”と記録されている。中国共産党の元公安部長である羅瑞卿氏によって提出された報告書によると、1948年から1955年までの間に400万人が処刑されたと推定される。クリスチャンへの迫害や1953年の粛清で少なくとも数十万人の命が奪われた”というのだ。
1996年、中国共産党中央委員会党史研究室を含む4部門が共同でまとめた報告書「建国以来の政治的運動の事実」によると、“1949年初頭から1952年2月までの間に2段階に分けて行われた「反革命鎮圧」で157万6100人以上の反革命分子が制圧され、うち87万3600人が死刑判決を受けた”と報告されている。
その後1960年代の人為的な大飢饉が起こった。「ニューヨーク・タイムズ」紙の元副編集長のハリソン・E・ソールズベリー(Harrison E. Salisbury)氏の著作「長征:語られざる真実」の中にはこう記載してある。
“1960年代初頭、中国では2700万人が餓死した” また、中国共産党が収集した公式資料「鳳陽報告書」によると、“鳳陽県では6万245人が飢餓で亡くなり、うち8404世帯の世帯全員が餓死した。また603件の共食い事件が発生した。現地の人によると、当時は食べる草すらなかったから、誰かの家の煙突から煙が上がっていたら、それは間違いなく人肉を煮ている”というのだ。
この大飢饉を中国共産党は「三年の自然災害である」と事実を歪曲して報じたが、実際その三年間の気候は穏やかで自然災害は一度もなかった。これは全くの「人的災害」だったと言える。中国共産党の統治下では、死人の肉を煮込んで食するということが、しばしば現れ、さらに他の地区から逃げてきた人や自分の子供まで殺して食べてしまうことも発生していた。
その後に文化大革命が起こり、その死者数は中国共産党の公式データでは210万人となっているが、外部では400万人と推定されている。文化大革命後に起きたのが、1989年の北京天安門広場の大虐殺だった。国際赤十字は「6月4日の夜、少なくとも3700人が死亡した」と推定している。
そして1990年代からは何の罪もない、「真・善・忍」に基づいて良い人になるよう実践する法輪功学習者を迫害し始めた。正見ネットは2014年、“初歩的な計算だけでも、約336万人の法輪功学習者が中国共産党の残忍な迫害の中で命を落とした”と報じた。中国共産党は法輪功学習者の臓器を生きたまま摘出し売買している。この迫害は21年経った今でもなお続けられている。
米国ハワイ大学のR・J・ランメル(Rudolph Rummel)教授の1991年の著書「中国の血まみれの世紀 義和団事変から天安門事件までのジェノサイドと大量殺戮」によると、“毛沢東時代に「飢饉」による死者数が2700万人、1800万人が「プロレタリア独裁」で死亡し、合計4500万人が異常な原因で死亡した”と推定している。
過去20年近くに及ぶ学生や各種宗教団体への迫害および「クメール・ルージュ」と東南アジア諸国への暴力輸出なども加え、中国共産党の100年に及ぶ歴史の中で、実に8千万人近くを殺害した。これは2度の世界大戦を合わせた人類全体の犠牲者数をも上回っている。
多くの人たちが依然として、なぜ中国共産党は人を殺す必要があるのかと考え、理解できないでいるだろう。「大紀元」の社説である「共産党についての九つの論評」の第七章で、中国共産党による殺人の歴史について仮設している。本の中では、こう書かれている。
“理論的には共産党は「プロレタリア独裁」と「プロレタリア独裁の基での継続革命」を信じている。そのため共産党は政権発足後に「地主を殺す」という方法で農村の生産秩序を解決し、「ブルジョアを殺す」ことで商工業の改革を成し遂げ都市の生産秩序を解決する。この二つの階級を抹殺してから、経済における基礎的問題をほぼ解決した。イデオロギーの問題も殺人によって解決しなければならない。その中に「胡風の反党集団」を絶滅させることと「反右」を含み、それをもって知識人たちを粛清する目的を達成する。「民間信仰団体及び結社」を殺すことで宗教問題を解決する。「文革の人殺し」は文化及び政治に関する党の絶対的な指導権問題を解決するためである。「天安門事件」の殺人は民主化を求める問題を解決するためであり、政治危機から逃れるためである。「法輪功を迫害する」ことは信念及び健康増進運動などの問題を解決するためである”
“表面的に多くの事例は、中国共産党が「受け身の立場の殺人」のようで、社会に偶然の事件が起こり、偶然に中国共産党の悪霊及びその組織的殺人メカニズムに触れたようであるが、実は「偶発」の裏に隠れている周期的な殺人は中国共産党にとって必然なことと言える。二年間ほど殺人をしなければ、人々は中国共産党がすでに改善されたという錯覚に陥てしまい、甚だしい事例としては、89年(天安門事件)民主運動の理想青年と同様、民主化を性急に求めることになりかねない。7~8年ごとに一度大量殺人をすれば、人々の恐怖感への記憶を絶えず刷新することができる。成長したばかりの若者に警告し共産党に反対し中国共産党の絶対指導権に挑戦しようとする人たちや歴史の本来の面目を回復しようと図る人たちに「プロレタリア独裁の強烈な打撃」を食わすに違いない”
“この点から見ると、殺人とは中国共産党が統治を維持するための最も必要な手段の一つである。血の債務がますます多くなる状況の下で、屠殺用の刃物を捨てると自分自身を民衆に渡して清算されることになる。それゆえ、中国共産党の殺人は、大量に殺戮して死体を至る所に放置するばかりでなく、しかもその手段はとても残虐で、特に政権を打ち立てたばかりの時期にはそうしなければ、民衆を震え上がらせることができなかった”
“それゆえ、中国共産党は何十年間もの虐殺の中で、数えきれない生命を破壊したばかりでなく、さらに中華民族の精神をも打ち砕いてしまった。数多くの人が残虐な闘争の過程で、条件反射を形成させられ、中国共産党が殺戮の刃さえ上げれば、すぐにすべての原則を放棄し、一切の判断力を無くし投げ出してしまう。ある意味からいうと、彼らの精神はすでに死んでいる。これは肉体の死亡より遥かに恐ろしいことである”
中国人も目を覚ます時が来た。香港市民のように強権と専制にノーと言わなければならない。なぜならば、もし今日黙っていたら、明日には中国共産党という殺戮マシーンの刀の下で死ぬかもしれないからだ。
【参考動画】
・大紀元【薇羽 看世間】毛沢東の知られざる事実と、中国共産党の歴史(2020年12月6日)